[2007年礼拝メッセージ]


[2025年礼拝メッセージ]
[2024年礼拝メッセージ]
[2023年礼拝メッセージ]
[2022年礼拝メッセージ]
[2021年礼拝メッセージ]
[2020年礼拝メッセージ]
[2019年礼拝メッセージ]
[2018年礼拝メッセージ]
[2017年礼拝メッセージ]
[2016年礼拝メッセージ]
[2015年礼拝メッセージ]
[2014年礼拝メッセージ]
[2013年礼拝メッセージ]
[2012年礼拝メッセージ]
[2011年礼拝メッセージ]
[2010年礼拝メッセージ]
[2009年礼拝メッセージ]
[2008年礼拝メッセージ]
[2006年礼拝メッセージ]



[2007年12月23日(日)]
「一番大切な戒め」

[2007年12月9日(日)]
「あふれるばかりの感謝」

[2007年11月4日(日)]
 (第二礼拝)

「私達は完全に自由だ」

[2007年11月4日(日)]
「エマオの途上

[2007年10月28日(日)]
「実践すべき大切な教え」

[2007年10月23日(火)]
「祝福の祈り」

[2007年10月21日(日)]
「イエス様と2人罪人」

[2007年9月30日(日)]
「神様の宣言」

[2007年9月23日(日)]
「見える世界と見えない世界」

[2007年9月9日(日)]
「持ち物

[2007年9月2日(日)]
「愛の出所」

[2007年7月22日(日)]
「風鈴」

[2007年6月24日(日)]
「後ろのもの、前のもの」

[2007年6月17日(日)]
「できる」

[2007年6月10日(日)]
「願い」

[2007年6月3日(日)]
「見い出す」

[2007年5月20日(日)]
「持ち運ぶ

[2007年5月13日(日)]
明確な目標」

[2007年4月8日(日)]
「回復の神」

[2007年3月18日(日)]
「ヨハネの祈り

[2007年2月25日(日)]
「ユーラクロン」

[2007年2月18日(日)]
「馬と鹿

[2007年2月4日(日)]
「2つの信じる事」

[2007年1月21日(日)]
「よきサマリヤ人」

[2007年1月14日(日)]
「イエス様の問いかけ」

2007年
礼拝メッセージ

日曜礼拝と水曜集会の礼拝メッセージです。
このメッセージメールを、ご希望の方に配信しております。
恒一郎牧師宛に配信ご希望のメールをお送りください。
パソコン、携帯どちらでも受信可能です。

2007年12月23日(日)
礼拝メッセージ…一番大切な戒め…

ひとりの律法学者がきて、彼らが互いに論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられるのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け、主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであったて、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
                           マルコによる福音書 第12章28節〜34節

 クリスマスおめでとうございます。私達の救い主なるイエス様が本日も聖書の御言葉をもって私達を慰め、励まし、進むべき道を示して下さいます。では2007年のクリスマスメッセージをお伝えします。ハレルヤ♪ 当時、イエス様を陥れようとする人々が多くいました。そして、イエス様をはめようとする様々な質問がなされていました。しかし、イエス様は神様の知恵をもって全ての質問に答え真理を語りました。それを見て聞いていた一人の律法学者が最後に質問しました。この律法学者は「イエス様は偽物ではなく真理を持っている」と思って『一番大切な戒めはなんですか?』とイエス様に尋ねました。これに対してイエス様が答えた御言葉が本日私達に与えられたメッセージです。イエス様はまず『イスラエルよ、聞け、主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。』と語られました。私達の神様は唯一のお方です。私達を救う神は唯一人しかいません。私達を癒す神は唯一人しかいません。私達を幸せにする神は唯一人しかいません。私達はまず真の唯一の神様を信じ、認め、あがめてまいりましょう。
 
 次にイエス様はその神様を『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』と語られました。私達は自分の全てを尽くして神様を愛して行きましょう。神様との関係を大切にし、神様の御声である聖書に耳を傾け、神様に求め、神様を頼り、力の限り神様をほめたたえてまいりましょう。実は神様の方はすでに私達の事を愛しているのです。神様の愛は豊かに一人一人に注がれて続けています。そしてその愛は何があっても変わりません。たとい私達側が変わっても、神様の愛は変わりません。神様は赦しと忍耐という愛で私達を愛し続けて下さいます。だから、私達が神様を愛すれば、神様と私達は愛し合う関係になることが出来るのです。そして愛し合うことによって、神様からの見えない祝福と見える祝福を受けることができるのです。これが人間にとっての最高に幸せな道です。神様を愛して、神様と愛し合って行きましょう。次にイエス様は第一の戒めと同じくらい大切な戒めについて語られました。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』です。

 実は私達にとってこれが難しいのです。神様は私達に対して赦しと忍耐をもって愛して下さいますが、隣人はそうではありません。だから、現実に多くの人々が互いに傷つけ合い、裁き合い、憎み合い、時には殺し合ってしまっています。イエス様はこの現状を憂えているのではないでしょうか。だからこのクリスマスにイエス様は私達に『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』と語り、人間が真に幸せに生きる道を示しているのです。実は人間には自分を愛する(大切にする・守る)機能が付いています。例えば「まぶた」です。何かが飛んできたらまぶたが目を守ろうします。また、こけたりつまずいたりした時、転ばないように無意識のうちに何かにつかまったりします。この自分を愛する機能を隣人にも使って行く事によって、イエス様の語られた『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』を行う事が出来るのです。私達が愛し合って行くとき、そこに平和や安心や楽しさが広がり、幸せになる事が出来るのです。

 イエス様が語られた御言葉は私達を真に幸せに生きる道です。唯一である神様を愛して、神様と愛し合って行きましょう。また、隣人を愛して、隣人と愛し合って行きましょう。それが出来るように、イエス様はこの世に来て下さったのです。メリークリスマス♪
皆様の上に神様の祝福が豊かに注がれるよう心から祈ります♪

[ページtop]

2007年12月9日(日)
礼拝メッセージ…あふれるばかりの感謝…

『このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。』
                          コロサイ人への手紙第2章6節〜7節


 本日の御言葉の最後に『あふれるばかりに感謝しなさい』と記されています。これが出来る人は本当に幸せですが、クリスチャンの中にもあふれるばかりに感謝している人がどれだけいるでしょうか。感謝は出来るけれど、あふれるほどではないのが現実ではないでしょうか。本日の御言葉も含め、聖書の御言葉は神様からのメッセージです。そして神様は私達が出来ない事を命じられお方ではありません。そればかりか、出来るように、その方法を教え、その力を与え、その道を開いて下さるお方です。

 本日の御言葉を通して、神様は『あふれるばかりに感謝する』方法を教えています。詳しく聖書を見て行きましょう。

 第一は『彼にあって歩きなさい』です。『彼』とはもちろんイエス様。これは「自分の生活の全てに救い主なるイエス様が共にいて下さる事を信じて生きる」という事です。これを信じて生きて行く時、私達を不幸にする悩み、痛み、苦しみから解放され、イエス様の救いの御業を体験し、感謝することが出来ます。

 第二は『彼に根ざし』です。植物にとって、根を張る事は大切です。しっかりと根を張らなければ、大きく育たないし、育っても途中で倒れてしまいます。また、植物は根から土の中の水分や養分を吸収して成長します。私達も信仰生活において、キリストという土台に深く広く根を張る事が大切です。実際には御言葉によってイエス様につながり、恵みや励ましや慰めを与えられていく事です。そして私達は、御言葉から神様に愛されている事をもっと覚えて行くべきです。愛されている事を覚えて行くなら、私達の心に安心と感謝が生まれてきます。

 第三は『彼にあって立てられ』です。植物は根を張ったら、当然、上に向かって幹を伸ばし、枝を広げ、葉を茂らせ、花を咲かせ、実をみのらせます。私達も御言葉によりイエス様につながって行く時、成長し、愛や喜びや平和や寛容などの聖霊の実を結び、神様や人々を喜ばす者になる事ができます。そして、信仰者としてしっかりと立つ事が出来るようになり、あふれるばかりに感謝することが出来ます。

 今、世の中は「感謝」からどんどん離れています。だからこそ、キリスト者として、イエス様と共に歩み、イエス様に根ざし、イエス様に立てられ、信仰者としてしっかりと立ち、あふれるばかりに感謝して行きましょう!ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年11月4日(日)
第2礼拝メッセージ…『私達は完全に自由だ』…

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。
                  現代訳聖書 コリント人への第1の手紙第10章23節


 本日の御言葉は現代訳聖書では『私達は完全に自由だ』です。人は誰かの言葉やサタンの誘いに縛られてしまい易い存在です。しかし、イエス様によってあがなわれた者は罪からサタンから解放されて、完全に自由されています。私達クリスチャンはまずそれをしっかりと覚えて行くべきです。そして感謝すべきです。

 その上で、本日の御言葉のように益になる事や人の徳を高める事を求めて行きましょう。

 まず、神様との関係において益になる事を求めて行きましょう。その為に祈り、聖書賛美、献金に力を尽くして下さい。

 そして、隣人との関係において益になる事も求めて行きましょう。その為には、『互いに愛し合いなさい』を実行するべきです。
 
 次に、人の徳を高める事をして行きましょう。実際には、とりなしの祈りです。その人に神様の最善がなされるように祈るべきです。

 私達はイエス様にあって自由人です。人の言葉やサタンに縛られる事なく、益になる事と人の徳を高める事に力を尽くして行きましょう♪

[ページtop]

2007年11月4日(日)
礼拝メッセージ…エマオの途上…

彼らは互いに言った、「道々お話になったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」。
                          ルカ福音書第24章30節〜33節


 エマオの途上とは、イエス様が十字架にかかって墓に葬られてから3日目にエマオという村に向かう2人の弟子にイエス様が現れて、共に歩き、聖書の言葉を語り、宿屋で食を共にして下さって、心が燃やされ、エルサレムにもどりイエス様がよみがえった真実を他の弟子達に伝えた出来事です。

 このよみがえられたイエス様は、今も私達と共に人生を歩んで下さいます。そして安心と楽しさを与えて下さいます。

 さらにイエス様は今も私達に福音を語って下さいます。福音とはGood Newsです。私達を良い方向へ導き、幸せにして下さる良い知らせです。聖書を開いて、イエス様が語られる福音をしっかりと聞いて下さい。

 さらにイエス様は交わりをして下さいます。祈りや賛美の中に身をおく時、その心に体に魂に恵み与えられます。

 これらのイエス様の現れにより、エマオの途上の弟子達のように、私達も心が燃やされます。心が燃えると、神様を愛するエネルギー、隣人を愛するエネルギー、奉仕するエネルギー、福音を伝えるエネルギー、神の作品として良い行いをするエネルギーが私達の内に沸き上がってきます。

 益々、イエス様と共に歩み、イエス様に聞き、イエス様と交わり、心燃やされて行きましょう♪

[ページtop]

2007年10月28日(日)
礼拝メッセージ…実践すべき大切な教え…

『心の目を覚し、堅く信仰に立ち、勇気を出し、強くあってほしい。あらゆることに愛をもって行ないなさい。』
             現代訳聖書 コリント人への第1の手紙 第16章13節〜14節


 本日の御言葉は、日々の生活において私達が実践すべき大切な教えです。

 まず『心の目を覚す』です。心の目を覚すことによって正しく善悪を判断する事ができ、真に自分の行くべき道、行なうべき事を知ることが出来ます。

 次に『堅く信仰にたつ』です。信仰とは神様との関わりです。神様との関わりを堅くするために礼拝を尊び、祈りと賛美と聖書と献金をする事に前向きに進んで行きましょう。
 次に『勇気を出し、強くあってほしい』です。積極的に肯定的に進み、サタンに負けない強さを持つべきです。

 そして最後に『あらゆることに愛をもって行ないなさい』です。教会学校に通っている中学生の一人が、私の顔を見ると「何か手伝うことある?」と声をかけてくれます。実際に手伝ってもらう事はあまりありませんが、その一言が私にとって、大きな慰めとなり励ましとなります。私達も今愛をもって声をかけ、愛をもって助け、愛をもって手伝い、愛をもって出来ることをして行きましょう。

 この一つ一つを行なう事によって、私達の生活に神様の知恵、力、助け、導きがあり、その人間関係において平和が広がって行きます。そして何より神様が喜んで下さいます。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年10月23日(火)
特別メッセージ〜祝福の祈り〜

『願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。
願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。』

 これは、礼拝において、私が祝祷の時に使う御言葉です。この御言葉一つ一つの内容を見て行くと、神様の素晴らしい恵みを知ることが出来ます。神様は、私達を守って下さいます!私達を攻撃して、疲れさせたり、弱気にさせたり、悲しませたりする様々な出来事や様々な人達がいます。しかし、それらに勝る神様が私達を守って下さる。これを信じて生きて行けば、全てに安心を得る事が出来ます。

 次に、神様は私達を恵んで下さいます。神様の恵みは私達を必ず幸せにします。この恵みの神様に頼って幸せになって行きましょう。

 そして最後に、神様は平安を与えて下さいます。神様の平安は人が与えるものとは違います。私達の心と思いを守って下さる平安です。そして、その平安を得る方法はただ一つです。祈りです。私達は、どこでもいつでも祈る事が出来ます。どんどん祈って、神様の平安に満たさて行きましょう!
ハレルヤ!

[ページtop]

2007年10月21日(日)
礼拝メッセージ…イエス様と2人罪人…

十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
                          ルカ福音書第23章39節〜43節


 本日の聖書には、十字架にかかられたイエス様と2人罪人とのやりとりが記されています。イエス様はゴルゴタの丘において、2人犯罪人と一緒に十字架につけられました。当時の十字架刑は、手と足に釘を打ち、死ぬまでそこに置かれる非常に苦しい極刑でした。

 その苦しい状況の中で、犯罪人の一人が「あなたはキリスト(救い主)ではないか。それなら、自分を救い、また我々を救ってみよ」とイエスに悪口を言い続けたました。苦しみから逃れたい一心で、イエス様に悪口を言い続けたのですが、死をまえにしても、尚、欲を持ち、悪を語るというのは非常に残念です。人は死を前にしたとき何を語るべきか大切な事です。私の信仰の大先輩である綿貫さんという人は詩篇121『わたしは山に向かって目をあげる。わが助けはどこからくるであろうか。わが助けは天と地とを造られた主からくる。・・・』を全部暗唱して天に召されていきました。私も今から聖書の御言葉をしっからと心と頭に蓄えて備えて行きたいと思っています。とにかく、聖書の御言葉を語れなくても、この犯罪人のように悪を語って人を恨んで死を迎えないようにしたいものです。

 この犯罪人の悪口に対して、もう一人の犯罪人が次のように語りました。
『神を恐れないのか』。この人は死を待つ状態になって初めて神を恐れ、神の存在を認め、神を信じました。さらに
『お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ』。ここにおいて、彼は自分の罪・悪を認め、悔い改めています。さらに『しかしこのお方は何も悪いことをしたのではない』。彼は、イエス様が正しいお方であり、救い主であることを認め、イエス様が十字架にかかられた目的は、人類の救いのためであることを認めた発言をしました。そして彼は最後に『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出して下さい』と魂の救いを求めました。これに対して、イエス様は『よく言っておくが、あなたはきょうわたしと一緒にパラダイスにいるであろう』と言われ、救いの確信を得ることが出来ました。

 ほぼ同じ状況の2人の犯罪人ですが、イエス様に対しての思い、考え、告白によって大きく違う道に進むことになりました。今、私達はイエス様に対してどういう思いどういう考えを持ち、どのような告白をするべきでしょうか。
 
 私達はこの2目の犯罪人のように、自分の罪・弱さ・失敗を認め、悔い改めをして行きましょう。また、イエス様が真に自分の救い主、癒し主、助け主、導き手であることを認め信じ、期待し、実際に求めて行くことが大切です。
 
 イエス様は私達一人一人の信仰に、天国の恵みをもって答えて下さいます。益々、イエス様を強く信じて、この地においても素晴らしい恵みを味わってまいりましょう。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年9月30日(日)
礼拝メッセージ …神様の宣言…

『わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。』
                             イザヤ第45章4節〜5節


 本日の御言葉は、神様の私達に対して素晴らしい宣言が記されています。その一つ一つを通して、神様の恵みと愛を深く味わって行きましょう。
 
 まず、『わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ』と宣言しておられます。名前を呼ばれると言うのは嬉しいものです。先日、よその教会に行った時、受付けの方が私の顔と名前を覚えていて、「高梨先生、ようこそお出で下さいました」と挨拶して下さり、嬉しく思いました。神様は、私達一人一人のことを決して忘れることなく、覚え、愛し、名前を呼んで下さいます。私達も、その呼びかけに応えて、神様の前に出て、祈りと賛美をもって神様に近づいてまいりましょう。

 次に神様は『あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える』と宣言しておられます。私達は神様のことを全て知り、理解することは出来ません。それでも神様は私達に「神の子」と言う肩書を与えて下さいます。この肩書によって、私達は神様の恵みにあずかり、神様の恵みに生き、神様の恵みを伝える者となることが出来ます。

 そしてさらに、神様は『わたしが主である』と宣言しておられます。聖書の中に神様のことを「主」と表現しているところありますが、これは神様が「主権者」であり、全ての権威、全ての権利を持っている神であることを現わしています。しかし、神様は決して独裁者ではなく、愛と忍耐の主権者ですから、私達は安心して主に求め、主に祈り、主に頼ることが出来ます。

 そして、最後に、神様は『わたしはあなたに力を帯びさせる』と宣言しておられます。では、神様はどのような力を私達に帯びさせて下さるのでしょうか。第1に、正しく歩む力を帯びさせて下さいます。今、世の中はどんどん正しさから離れ、悪がはびこっています。だから、私達は義である神様に近づく為にもこの力をもって進みましょう。第2は、信仰の力です。神様を信じ、神様を仰ぎ、神様に頼り、神様に期待する力を帯びさせて下さいます。これは神様の祝福を得るのに必要な力です。そして第3は、愛する力です。愛する力は、平和や安心、慰めや励ましを自分にも、隣人にも与えることが出来、楽しさや喜びを広げます。この力を神様は私達に帯びさせて下さいます。

 私達は、神様のこれらの素晴らしい宣言を感謝して受けて、神様の恵みを日々味わいながら進んでまいりましょう。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年9月23日(日)
礼拝メッセージ …見える世界と見えない世界…

『あなたがたの言い分を持ってきて述べよ。また共に相談せよ。この事をだれがいにしえから示したか。だれが昔から告げたか。わたし、すなわち主ではなかったか。わたしのほかに神はない。わたしは義なる神、救主であって、わたしのほかに神はない。 地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』
                          イザヤ書第45章21節〜22節


 人は2種類の目を持っています。肉の目と心の目(霊の目、信仰の目)です。この2つの目で、見える世界と見えない世界を仰ぎ見ながら生きています。見える世界というのは、肉の目で見える現実のことであり、この現実が私達の心に様々な影響を与えます。そして、残念なことにこの現実は、悲しみや、苦しみ、絶望、そして恐怖を与えることが多いのです。実際に報道されるニュースを見ても、悲しむべき事件や事故が多く、嬉しくなるような出来事はほとんどありません。そして、そのニュースによって「もしかしたら自分にも・・・、家族にも・・・」とマイナス的に想像で、恐怖が心に入ってしまう人もいるでしょう。しかし、この見える世界から逃れることは出来ません。

 そこで、私達はこの現実の中に生き、この現実を見つつも、もう一つの目である心の目で、見えない世界をもっと仰ぎ見るべきではないでしょうか。この見えない世界とは、どんな悲惨な現状、悲しむべき状況であろうが、後に、神様が成してくださる希望の明日のことです。この希望の明日には、神様の恵みと祝福があり、私達を幸せにして下さいます。私達は、神様が与えて下さる希望の明日を心の目を開いて仰ぎ見て行きましょう。

 旧約の時代に、心の目を開いて、神様の恵みを実際に獲得した人がいます。ヨシュアとカレブです。彼らはエジプトの奴隷生活から解放された200万人の中の2人です。そのあと、40年間荒野を旅して、その200万人の人達は荒野で死んでしまいました。しかし、彼らは荒野という厳しい現実の中で、神様の備えて下さる恵みの地であるカナンを心の目を開いて見ていました。だから、その地に入ることが出来、その恵みを豊かに受けました。

 今、私達一人一人の中に、問題のない人はいないでしょう。苦しみや悲しみ、痛みを背負っている人、また、そのような人と関わりを持っている人もいるでしょう。もちろん、その現実から目をそらして逃げていては、解決はありません。しかし、その現実によって、恐怖に沈んでいたらもっとよくありません。だから、今、神様を信じて、心の目(霊の目、信仰の目)を開いて、神様が用意していて下さる見えない世界(希望の明日)を仰ぎ見て行きましょう。いつの日か、必ず、神様の恵み、祝福を実際に獲得することが出来ます。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年9月9日(日)
礼拝メッセージ …持ち物…

『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。』
                          ヨハネの黙示録第3章11節


 持ち物は、一人一人違います。ちなみに私がいつも持ち歩いている物は、さいふ・携帯電話・鍵・メモ帳・ペン・頭痛薬・にんにく卵黄です。それぞれが私の生活に必要であり、私の生活の助けとなります。これらは、目に見える物ですが、実は目に見えないけれど、いつも持っているものが私にはあります。この目に見えないものの方が、目に見える物以上に私の生活において、大きな助けとなり力となっています。

 それはイエス様が与えて下さったもので、私だけでなく、信じる者にはもれなく与えられるものです。本日はそれらを紹介いたします。

 第一は、信仰(信じる心)です。今、多くの人がこれを持っていません。政治家も医師も警官も先生も友人もそして、親や兄弟も信じられないと言う現実があります。うっかり信じるとバカを見る事も少なくありません。しかし、この信じる心は、人にとって素晴らしいもので、平和や楽しさや助け合いなどの良いものを広げる事が出来るのです。だから、今、確かで、裏切る事のないお方、真に助けとなり力となるお方であるイエス様を信じてまいりましょう。イエス様を信じる心(信仰)によって、私達は神様のあらゆる恵みを引き出すことができ、神様による素晴らしい変化を体験することが出来るのです。

 第二は、希望です。この希望も、今、多くの人が持てないでいます。それは、不安材料が多いからです。イエス様は、聖書において『わたしはよみがえりであり、命である・・・わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる』と語っています。この『たとえ死んでも生きる』と言う言葉は、何だか強引ですが、イエス様にはよみがえりの力があります。復活、回復の力です。だから、どんな人でもどんな状況でも、イエス様によって希望を持つことが出来るのです。

 イエス様が与えて下さった第三は、愛です。イエス様を通して私達は神様に愛されている事が分かります。そして、神様に愛される事によって、隣人を愛する事が出来るようになるのです。隣人を愛して行くならば、そこに平和が広がり、楽しさや幸せが広がります。

 今、イエス様を信じる者に与えられる信仰、希望、愛を手放すことなく、しっかりと持ち続けて、神様の恵みに生きて行きましょう。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年9月2日(日)
礼拝メッセージ …愛の出所…

『愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。』
                            ヨハネの第一の手紙第4章7節〜9節

 今、世の中で起こっている問題やトラブル、事件などの原因は、本来、人が為すべき一つの行動の欠落によります。その欠落とは「愛し合う」です。この「愛し合う」から遠い状態にある事によって、憎しみ、恨み、妬みが人間関係に広がり、悲しむべき事が起きているのです。そして、今、多くの人が、「愛し合う」事の素晴らしさや大きな利益を知らないでいます。

 そんな人類に対して、神様は今日も明日も「愛し合う」ように語っています。そして、神様は語るだけでなく、実際に「愛し合う」為の愛を私達に注いで下さいます。

 本日の聖書にあるように『愛は神から出ている』のです。愛の出所は神様なのです。その神様の愛には、ゆるしと言う成分が入っています。ちなみに、人の愛の成分は、give&takeです。「あなたが愛するなら、私も愛する!あなたがゆるすなら、私もゆるす!あなたが与えてくれるなら、私も与える!」これがgive&takeの愛です。神様の愛とは大きな差があります。
 
  神様の愛は、「損をしても愛する」です。この愛が人の心を思いを生活を変えて下さるのです。今、この素晴らしい愛を神様に求めて行きましょう!この愛で、まず、自分自身が変えられて行きましょう!そして、その愛で、隣人と愛し合って行きましょう!神様は、求める者に、惜しみなく与えて下さるお方です。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年7月22日(日)
礼拝メッセージ …風鈴…

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。
                         
聖書 ヨハネによる福音書第3章8節

 本日のメッセージの題は、「風鈴」です。今、教会の入り口に、聖書の言葉をつけた風鈴が幾つかつるされています。そして、風鈴がチリリンと鳴ると風が吹いてきているのがわかります。さらに、その風鈴の音が、安らかな穏やかな気持ちにしてくれます。

 ある教会の牧師先生が「クリスチャンは風鈴!聖霊の風に吹かれて、福音という音を鳴らす存在!」と語っていました。今、全てのクリスチャンが風鈴として、福音の音を鳴らすべきです。そのために、聖霊の風が吹いてくる所に自分を置くことが大切です。では、聖霊の風はどのような所に吹いてくるのでしょう。聖霊の風が吹いてくる所とは、愛とゆるしのある所です。

 韓国に聖霊の風が強く吹き、リバイバルが起った理由は、この日本への愛とゆるしがあったからです。日本人が韓国の人々に対してしてきた事は、ゆるしがたい行為です。それでも、韓国のクリスチャンは日本人をゆるし、愛し、最高のプレゼントである福音を携えてこの日本に来て下さいました。徹底した愛とゆるしの韓国に聖霊の風か吹いてきて、韓国のクリスチャンは高らかに福音という音を日本に向けて、また、世界に向けて鳴らし続けています。

 今、私達もイエス様の十字架によりゆるされ、神様の愛を受け取る者として、愛とゆるしの人に、愛とゆるしの家庭に、愛とゆるしの教会になって行きましょう。そこには、必ず、聖霊の風が吹いてきて、私達一人一人が福音という素晴らしい音を出すことができます。では、実際にどのように愛とゆるしの生き方をすればよいのでしょうか。第一は、自分が愛され、ゆるされている事を日々感謝して告白して行く。第二に、自分の隣人に対して、愛とゆるしをもって接して行く。第三に、神様が備えて下さった善意の耳、善意の口、善意の手をどんどん使って行く。第四に、忍耐。これらによって、愛とゆるしを持って生きることができ、そこに聖霊の風か吹いて来て、福音の音を鳴らすことができます。

 また、この聖霊の風は、福音の音を鳴らすだけでなく、一人一人に希望に溢れさせて下さいます。さらに、生きる全てにおいて、教え、導いて下さいます。聖霊はいつも正しい方向へ平和な方向へ幸せな方向へ導いて下さいます。

 『風は思いのままに吹く』。今、一人一人の人生に豊かに、聖霊の風が吹いてくることを心から祈ります。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年6月24日(日)
礼拝メッセージ…後ろのもの、前のもの…

兄弟たちよ。わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきだある。 

                             ピリピ人への手紙第3章13節〜16節

 パウロが、神様の霊感を受けて書き残した多くの手紙は、現代に生きるクリスチャンに大きな助けとなり、導きとなり、励ましとなります。また、実際の生活の中で何をすべきかを明確に教えられる素晴らしい書簡です。そして、本日のピリピ人への手紙もその一つであり、特に本日の御言葉には、パウロ自身が信仰の歩みにおいて心に決めていた大切な事が記されています。その事が、現代に生きるクリスチャンの素晴らしい手本になるものです。早速、見て行きましょう。

 第一に、『後ろのものを忘れ』です。後ろのものは過去のこと。パウロは過去を突っつかれたら痛すぎる者でした。それは、彼がかつて反キリストであり、キリスト者を捕まえて、牢獄に入れてしまう働きをしていたからです。だから、キリスト者として、福音を伝えるにあたって、パウロは過去を消したい思いを強く持っていたかも知れません。しかし過去を消すことはできません。
 実は、私自身にも消したい過去があります。あの時の失敗や言動、あの出来事などなどたくさんあります。しかし、それらを消すことはできません。もしかしたら、このメッセージを読んでいる一人一人も、消したい過去があるのではないでしょうか。しかし、その過去を消すことはできません。

 でも、一つ大切なことを心に留めてください。私の消したい過去も、一人一人の過去もパウロの過去も、全て覆い尽くす神様の愛があることを知って下さい。ヨハネの第一の手紙に『御子イエスの血が全ての罪から私達をきよめるのである』と記されています。またミカ書に『神は・・・再び我々をあわれみ、我々の不義を足で踏みつけられる。あなたは我々のもろもろの罪を海の深みに投げ入れ・・・』と記されています。さらに、イエス様は各福音書において、様々な人に『あなたの罪はゆるされた』と語っております。この言葉は今、私にも、一人一人にも、そして、パウロにも語られました。だから、パウロは『後ろのものを忘れ』と語ったのです。私達も一人一人を縛り付ける様々な過去を忘れて行きましょう。たとえ、忘れられなくても、それらに縛られないで進んで行きましょう。もし、いつまでもそれらに縛られていたら、イエス様の尊い十字架を無駄にしてしまう事になってしまいます。繰り返し言いますが、イエス様は一人一人に『あなたの罪はゆるされた』と語っております。

 だから、第二に、私達は本日の御言葉の後半の『前のものに向かって体を伸ばしつつ進む』事をして行けばよいのです。前のものとは、将来の事であり、神様の備えて下さる恵みの事です。そして、この神様の恵みは、私達を清め、豊かにし、用いられる人に変えて下さいます。パウロも神様によって清められ、豊かにされ、福音の前進のために、大いに用いられました。

 今、私達も、イエス様の十字架による贖いを感謝して、後ろのもの(過去)を忘れて、神様の恵に心も体も向けて行きましょう。そして、神様によって、益々、清められ、豊かにされて、福音の前進のために用いられて下さい。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年6月17日(日)
礼拝メッセージ…できる… 

 私達はこのキリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
                          聖書 エペソ人への手紙第3章12節


 旧約の時代において「神様に近づく」という事は、恐ろしい事であり、神様に会う事は死につながる行為であり、それほど、神様は崇高なお方であり、恐れ多い存在でした。そして、今も神様は、崇高なお方であり、恐れ多い存在です。しかし、旧約の時代との違いがあります。それは、イエス・キリスト様の存在です。このイエス様の十字架と復活により、あの崇高なお方、恐れ多い存在の神様に近づく事が出来るのです。そして、私達はその神様の恵みを知り、受ける事が出来るのです。

 では実際に「神様に近づく」とはどういう事でしょうか。第一に、「神様に声をあげる」です。神様に様々な願いを直接語る事(祈り)が出来ます。そして、神様による奇跡の御業を見る事が出来ます。さらに、神様に賛美をささげる事が出来ます。心からの賛美は、あの神様を喜ばす事になります。これは素晴らしい行為です。さらに、賛美の中に、神様はご臨在して下さり、私達はその臨在の中に、癒しや清めを受ける事が出来ます。そしてもう一つ、私達は神様に謝る事が出来ます。私にとって、これは、真にありがたい事です。旧約の時代においては、一度の失敗が命取りになっていましたが、イエス様の十字架により、ゆるしという大きな愛を与えられ、現代においては、あらゆる失敗、罪、汚れをゆるし、清めて下さるのです。そのゆるしを受けるべく悔い改め(謝る)をする事が出来ます。

 「神様に近づく」の第二は、神様から聞くです。神様は聖書を通して、また、礼拝、集会のメッセージを通して、一人一人に語って下さいます。そして、その神様の声を理解する事が出来るように、聖霊様が教師となって、教えて下さいます。また、神様の声(聖書)は、私達に慰めと励ましを与え、平和な方向へ、正しい方向へ、清い方向へ、楽しい方向へ導いて下さいます。 

 今、私達は、イエス様の十字架と復活により、ただこの一点により、神様に声をあげる事ができ、神様の声を聞く事ができ、神様に近づく事が出来ます。道は開かれているのです。
ある本に「人は出来るのにやらないのは、その人にとって大きな損失!」と書いてありました。神様に近づく事が出来るのに、近づかないのは、人にとって、最大の損失です。

 私達は、損失に生きるのではなく、神様に近づいて、神様の恵みに生きて行きましょう!神様もそれを望んで、恵みを備えて待っていて下さいます。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年6月10日(日)
礼拝メッセージ…願い…

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。  
                              
ピリピ人への手紙第2章14節

 
ナショナルの創立者の松下幸之助さんが、ある本の中で「2階に上がりたいと思い続けて、階段ができた。上がるかどうか迷っている人には、階段は思いつかない」と語っていました。この人は、多くの思いや願いを持ち、様々な家電製品を作ったのではないでしょうか。

 私達も「〜したい!〜になりたい!〜を手にしたい!」という願いを持つことは大切です。願いを持つと、その願いの成就の為に考え、努力し、工夫します。たとえ、その願いが成就しなくても、その努力や工夫は、確実に自分の内に実力をつける事になり、無駄ではありません。だから、願いを持つことは、大切です。そしてさらに、私達には、私達の願いに応えて下さる神様がいるのです。みなさん、何か願いを持っていますか?

 聖書の中には、神様やイエス様にお願いをしている人が数多く載っています。イエス様の弟子達もある願いを持っていました。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。弟子達の願いは、イスラエルの再興(国の復興)でした。イエス様が新しい王となって、国を復興して下さり、できれば、復興の際に、高い地位につきたいという願いを持っていました。しかし、イエス様は政治活動をするわけでもなく、ただ、貧しい人、病める人、悲しんでいる人を助け、癒し、慰める働きをしていました。そして、十字架にかかり死んでしまいました。弟子達の願い通りにはなりませんでした。

 しかし、その後、弟子達は、よみがえられたイエス様に出会い聖霊をうけて、願いが変わりました。イスラエルの再興から神の国の拡大に変わったのです。彼らの新しい願いはイエス様の弟子として、神様の御心にかなったものでした。

 みなさん、今、何か願いをもっていますか?願いを持っているということは素晴らしいことです。しかし、その一つ一つの願いも、全てが神様の喜ばれるものとは限らないことを覚えて下さい。だから、聖書が必要なのです。そして、本日の聖書では、神様が私達のうちに働きかけて、願いを起こさせて下さると記されています。だから、今、勝手な願いを持っている人も、これと言って願いのない人も大丈夫です。神様が、一人一人に御心に添った願いを起こさせて下さいます。

 では、その御心にそった願いとはどのような願いでしょう。それは、第一に、絶対に聖書から外れるようなものではありません。聖書通りの素晴らしい願いで、平和と秩序が広がるものです。第二に、福音が前進する願いです。第三に、私達が幸せになる願いです。

 私達は、神様との関わりの中に、素晴らしい願いを起こさせていただきましょう。そして、本日の聖書にはもう一つ素晴らしい約束が記されています。『実現に至らせる』です。願いを起こさせるだけではなく、それを実現に至らせて下さいます。私達の神様は、至れり尽くせりの素晴らしい神様です。この神様をこれからも信じ、神様の起こして下さる願いを大切にして、その実現の御業を見て体験して行きましょう。ハレルヤ♪


[ページtop]

2007年6月3日(日)
礼拝メッセージ…見い出す…

わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である。
         
                   箴言第8章34節〜36節

 「見出す」「見出される」「発見する」と言うことは、素晴らしいことです。特に、無くなった物を発見すると嬉しいです。何年か前の教会サマーキャンプで、集会の後、私の妻が「眼鏡のネジが取れて無くなっちゃった」と言ってきました。私達は祈って、その集会室を探しました。私は探しながら、「たぶん見つからないなぁ〜」と思っていたら、一人の兄弟が「あったー」と声を上げました。私は思わず「マジ!?」と言ってしまいました。その広い集会室で、その小さなネジを発見出来た時の驚きと嬉しさは今でも忘れられません。その後、みんなで神様に感謝の祈りをささげ、私は個人的に不信仰を悔い改める祈りをしました。実は、この毎年行なわれているサマーキャンプでは、無くなる物の発見だけではなく、神様の素晴らしさや兄弟姉妹との交わりの楽しさや礼拝、集会、賛美、祈りの大切さなど、様々な発見をする事が出来ます。今年も8/12〜14に御殿場のYMCA東山荘で行なわれます。ぜひ、参加していただきたいと思います。そして、それぞれ素晴らしい発見を体験していただきたいと思います。聖書に戻ります。

 本日の聖書にも、発見(見出す)の素晴らしさが記されています。何の発見でしょうか?もちろん、神様を発見する事です。実は、人にとって、この真の神様を発見することが、その人にとっての最高の幸せなのです。そして、本日の聖言葉には、真の神様を発見する事によって得ることが出来る二つの幸せについて記されています。

 第一は、「命を得る」です。普通、命と言うと、死に向かって生きる命です。しかし、神様を発見した者が得る命とは、神様と共に歩む命であり、天国へ向かって生きる命です。この命によって、私達は神様に生かされ、神様による大切な使命と目的をもって生きることが出来るのです。そして、この聖書の中には、その命を持ち、神様による大切な使命と目的に生き、素晴らしい働きをした人々が数多く載っています。特に、旧約聖書の士師記に出てくる「左ききのエホデ」は、一人で敵国の王を討ち、その後、イスラエルの民を引き連れ、敵の軍を滅ぼし、80年間、イスラエルに平和をもたらしました。この「左きき」という言葉は、ヘブル語で「イッテール・ヤドー・イェミーノー」で、直訳すると「右手の不自由」との意味になります。エホデは、通常の戦いに参加することが出来ない者でした。しかし、神様は、右手の不自由なエホデを用いました。神様は、その人が誰かより劣っていても、不自由さがあっても、神様の目的のゆえに生かし用いられるのです。今、私達一人一人も、神様を見出して行くならば、命が与えられ、福音の前進のために、また、平和が広がるために、誰かを喜ばせたり、励ましたりするために、生かされ用いられるのです。これが、神様を発見した者の一つ目に幸せです。

 第二は、「主から恵みをいただく」です。私はよく人から、いろいろな物をいただきます。いただくと嬉しいです。しかし、その全てが私にとってプラスになるわけではありません。先日、書道教室の子どもにお菓子をいただきました。そのほとんどが合成着色料のかたまりみたいなカラフルな駄菓子でした。せっかくだから、もちろん全部食べました。ふ〜。このように、人のくださる物は全てがプラスになるわけではありません。しかし、神様のくださる恵みは、一人一人にとって全てがプラスです。なおかつ、私達の内にあるマイナスもプラスに変えて下さる素晴らしい恵みです。その恵によって、確実に幸せになることが出来ます。

 私達は、イエス様を信じる信仰によって、真の神様を見出し、神様と共に生き、神様からの使命と目的に生かされ、さらに、神様の恵みが与えられます。この真の神様を見失うことなく、日々、神様に生かされ、神様の恵に生きて行きましょう。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年5月20日(日)
礼拝メッセージ…持ち運ぶ…

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
                        聖書 ルカによる福音書第10章25節〜28節


 聖書には、イエス様への質問が数多く載っています。真実を求めて質問する人、悪意をもつて質問する人、いろいろな人がイエス様に質問しています。イエス様は、その全ての質問に対して、神様の御心に添って答えをしています。もちろん、全ての人がその答えを理解し、納得したわけではありません。しかし、イエス様は、その人が神様にある幸いを得ることが出来るように、導き、最善の答えを示してきました。そして、現代に生きる私達の質問にも、イエス様は最善の答えを示し続けています。

 本日の聖書にも、イエス様への質問が記されています。しかし、質問をしたこの律法学者は、悪意をもって質問してきました。質問の内容は、上記の御言葉でも分かるように、永遠の命に関してです。イエス様は、神様が語っている律法から答えを見いだせるように、その人に言いました。すると、その人は律法から的確な答えをしました。そして、それに対してイエス様は、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と語られました。要は、神様が律法を通して、答えを語っているにもかかわらず、それを行なわないがゆえに、その恵を獲得することが出来ないと言うことをイエス様はメッセージされたのです。

 実は、神様は私達にもすでに、恵みを受ける道、幸せになる道を示し、繰り返し語っているのです。余談ですが、「神」と言う字は、「示」と「申」で構成されています。神様は私達人間に、示し、申す(語る)お方なのです。この聖書を通して、繰り返し、素晴らしい人生を歩む道を示し、語っています。ただ残念なことに、多くの人々がこれを見ない、聞かない、行なわないで、不幸や災いを選んで、トラブルや悩みを自分の内に引き込んでしまっています。

 今、私達は、神様が示し語っている恵みを受ける道、幸せになる道を聞いて、行なって、そして、従っていこうではありませんか。イエス様は、「その通り行いなさい」と語っています。神様の言う通りに行ない、従って、恵みを受け、幸いを得て行きましょう。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年5月13日(日)
礼拝メッセージ…明確な目標…

イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
                                    聖書 マルコによる福音書 第10章51節〜52節

 先日、書道教室の生徒が私にある一人の友達に対する文句を言ってきました。「Aちゃんは性格が悪くて、勉強もできないし、すぐ人の悪口言うし、ウソつくし、最悪〜!」。
私が「ふ〜んそうなんだ。そんな感じしなかったけどね」と言うと、
その子は「みんな言ってるよ!」と、
私は「みんなって誰?」と聞くと、
その子は「BちゃんとCさんと、それから、とにかくみんな!」と。
私は「あんた入れて3人じゃん」と言うと、
その子は「とにかくみんな言ってたよっ!」と切れていました。ある本に「みんなとは2〜3人、多くて5人」と書いてありました。
 今、流行を追い、人の言葉に左右され、多数を判断基準にしている人達が数多くいます。そしてそのような人達は「みんな」という言葉をよく使います。
「みんなが持ってるから」
「みんながやっているから」
「みんなが言っているから」などなど。 
さらに、そのような人達は、その言動が不安定で、何かを任せたり、頼りしたり出来ません。
 
 実は、誰でも、このような状態に陥る可能性があります。普段は大丈夫でも、悩みやトラブルが重なったり、体調を崩している時にそのような状態に陥ってしまいます。

 では、どのように対処すべきでしょうか?答えは、明確な目標を持つ事です。
 本日の聖書には、明確な目標を持って幸いを得た人の事が記されています。彼は盲人でした。そして、誰かの憐れみに頼って生きるしかない生活をおくっていました。そんな中、イエス様の噂を耳にしました。そして、彼は明確な目標を持つようになりました。そして、チャンスがきました。イエス様が、彼が物ごいをしている近くを通られました。彼はここぞとばかりに大きな声で「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫びました。イエス様は、彼に「私に何をしてほしいのか」と声をかけられました。イエス様は、彼が盲人であり、目が開かれるように願っているのは分かっていました。しかし、イエス様は「私に何をしてほしいのか」と聞きました。これは彼の明確な目標を確認する為でした。彼はイエス様に「主よ、見えるようになることです」と答えました。それに対してイエス様は「行け、あなたの信仰があなたを救った」と言われ、彼の目は開かれ、その目標を果たす事が出来ました。
 
 今、イエス様は、私達一人一人にも同じように「私に何をしてほしいのか」と声をかけています。このイエス様の問いかけに対して、明確な目標を掲げて行きましょう!そして、神様の与えて下さる御業を見て行きましょう!神様の御業は、一人一人を確実に幸せにします!ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年4月8日(日)
礼拝メッセージ…回復の神…

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
                            コリント人への第1の手紙 第13章


 ある牧師が信仰の醍醐味(だいごみ)について次のように語っていました。「悪魔が人間から奪い取った神様の恵を、イエス様によって回復していただき、その恵を味わっていくことが、信仰の醍醐味である」。

 確かに、最初の人間であるアダムは、悪魔の誘惑によって罪を犯し、神様から離れてしまいました。しかし、イエス様の十字架と復活がその罪を取り除き、神様の恵をもう一度受けられるようにして下さいました。イエス様はまさに回復の神です。
本日は、この回復の神であられるイエス様による素晴らしい回復の業と今も続く悪魔の略奪について教えられていきたいと思います。
 

 イエス様によってなされた第一の回復の業は、信仰の回復です。これは神様との関係の回復でもあります。しかし、悪魔は今も全ての人に罪を犯させようと導き、神様から離れさせようと様々な誘惑と惑わし、ウソやごまかしを持ってきます。特にクリスチャンに対して「お前はホントにゆるされているのか?」「お前のような者が教会に行っていいのか?」「お前はまた失敗しているではないか?」「お前はちっとも成長していないじゃないか?」「お前のような者は・・・・・」などとささやいてきます。悪魔は私達の失敗や弱さに乗じて、神様との関係において、不安や迷いを抱かせようとしてきます。

 しかし、私達が本来耳を傾けるべきは、悪魔の声ではなく、神様の声である聖書です。イエス様は聖書を通して、私達に『あなたの罪はゆるされた』『安心して行きなさい』『わたしもあなたを罰しない』『今後はもう罪を犯さないように』『わたしはあなたがたに平安を残して行く』と声をかけています。イエス様は私達を全ての罪から解放し、神様との関係を回復して下さり、信仰に生きる者にして下さいました。

 第二の回復の業は、希望の回復です。悪魔は私達から希望を奪い取り、失望させ、あちこちに残念を広げて行きます。希望がなくなると、元気がなくなり、考え方が暗くなり、否定的、消極的な方向へ進んでしまいます。イエス様は、私達が今一度、神様の恵に気がついて、
また、神様が備えていて下さる恵みに期待して生きられるように、一人一人に希望の回復をして下さいます。

 第三の回復の業は、愛の回復です。これは私達にとってとても大切な事です。悪魔は様々なところで、人と人の愛の関係を壊そうとしてきます。悪魔が実際に使う手で、善意の心を奪い取ると言うのがあります。善意の心が奪い取られ、悪意が心を支配し、悪意の目悪意の口、悪意の耳で、人々と接し、愛の関係を壊してしまいます。しかし、イエス様はたといその心が悪意に汚染されようが、繰り返し愛とゆるしと清めをもって臨んで下さり、神様に愛されている事を教え、隣人を愛する道を示し、導いて下さいます。また、イエス様は聖書で『互いに愛し合いなさい』と命じています。イエス様は私達に命じるだけでなく、それが出来るように、愛し合う力を与えて下さいます。

 イエス様は回復の神です。信仰の回復、希望の回復、愛の回復の恵みは私達が天国に行くまで、豊かに与え続けて下さいます。これらの素晴らしい恵みを受けて、益々、神様に感謝して前進してまいりましょう。また、この恵みを多くの隣人に現わして下さったら幸いです。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年3月18日(日)
礼拝メッセージ…ヨハネの祈り…

愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。
                          ヨハネの第3の手紙2節


聖書の中には、手本にすべき祈りが数多く記されています。「主の祈り」「ヤベツの祈り」「モーセの祈り」「ダビデの祈り」「パウロの祈り」そして、本日の「ヨハネの祈り」。

 ヨハネは、イエス様の弟子の一人で、以前は雷の子と呼ばれるくらい怒りやすく、自分の意に添わない時には、天の裁きを求めるような人間でした。しかし、イエス様との関わりの中に成長
し、さらにイエス様の十字架と復活、聖霊体験により、愛の人に変えられました。ヨハネは、手紙の中で『神は愛である』と宣言し、今も多くの人々に、聖書を通して、神様の愛を語っています。

そして、本日の御言葉においても、愛のある祈りをささげて、現代に生きる私達に手本として祈りを示しています。では、この祈りを詳しく見て行きましょう。

 ヨハネは、まず、『魂においていつも恵まれているように』と祈り出しています。ここで、質問です。「あなたの魂はいつも恵まれていますか?」。これは、神様と健全な関係にあるかどうかの質問です。私達は、信仰生活において、神様との関係が何よりも一番大切です。教会の中で、「牧師とうまくやっていこう!」「兄弟姉妹とうまくやっていこう!」と努力したり、時には我慢したりする人がいますが、何よりも神様とうまくやっていくことが大切です。神様と自分の間に、牧師も兄弟姉妹も家族も友達もお金も仕事も趣味も入れないで下さい。そして、神様を愛して、神様と関わる時間を大切にして、魂がいつも恵まれるようにして行きましょう。

 ヨハネはその後、『全てのことにおいても恵まれ』と祈っています。私達の人生において、全てのことが恵まれる状態には、なかなかなりません。「あっちが良くなると、こっちがトラブって、こっちがうまくいくと、そっちがダメになる」みたいな感じではないでしょうか。ある牧師先生が
「人は、全ての事に恵まれたら、神様を忘れてしまうから、トラブルが起きるんです」と語っていましたが、今日、神様は私達にヨハネの祈りを通して『全てのことに恵まれるように』と語っています。だから、私達もこの御言葉を信じて、全てのことが恵まれるように祈ってまいりましょう。


 そして、最後に、『また健やかであるように』と祈っています。今、多くの人が健康に関心を持っています。健康を保つ為の食品、運動器具、サプリメントなどが注目され、実際に多くの人が利用しています。もちろん、健康になる為にいろいろやることは良いですが、まず、覚えていくべきは、神様が癒し主である事です。人は生きていれば、風邪も引くし、ケガをする時もあります。そして、体だけではなく、心も風邪を引いたり、傷付いたりします。だから、神様が全ての癒し主である事を信じて、求めて行くことが大切です。

 私達は自分のために、このヨハネの祈りをして行きましょう。また、一人一人の大切な家族、友人の為にも、このヨハネの祈りを献げて下さい。皆様の魂が祝福され、その生活が祝福され、健康が祝福されることを心より祈ります。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年2月25日(日)
礼拝メッセージ…ユーラクロン…

昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。
                     新改訳 使徒行伝第27章 23節〜25節


 本日のメッセージの題になっている「ユーラクロン」とは、クレテ島のイダ山から吹いてくる暴風のことです。この暴風に遭遇したパウロの信仰告白が本日の中心的なメッセージです。

 パウロは囚人として、船に乗っていました。その船には全部で276人が乗っていましたが、その行く手をユーラクロンに阻まれて、どうすることも出来ない状態に陥ってしまいました。その時の状況を聖書では、『いくにちも太陽も月も見えず、・・・助かる望みもなくなった』と記されています。まさに最悪の状態。余談ですが、最近の子ども達は、ちょっとしたことで、「最悪〜」と言います。本来この言葉は、パウロ達が置かれた状態になって使うべき言葉なのではないのでしょうか。

 パウロは、このような状態におかれたましたが、「最悪〜」とは叫ばずに、祈りをささげていました。ある牧師が「祈りとは神様との通信→神様の携帯電話はいつでも電源が入っていて通話可能になっている。しかし、私達の携帯電話は電源が入っていなかったり、他の人との通話が忙しくて、神様からの電話に応答しない時がある」と語っていました。みなさん、祈っていますか?神様はみなさんからの電話を待っています。パウロは神様に祈り、神様からの答えをいただいたから、このユーラクロン(暴風)の中に信仰に立つことが出来ました。

 そして、素晴らしい信仰告白をしました。その告白の第一番目は『私の主』です。これは、自分が神様に属していることを宣言する事であり、「神は私の神、私は神の民」であることを世に示すことです。この告白により、揺らぐことのない神様につながり、自分も揺らぐことなく進むことが出来ました。

 第二の告白は、『私の仕えている神』です。聖書に『もし私(イエス様)に仕えようとする人があれば、その人を父(神様)は重んじてくださる』と書いてあります。『重んじてくださる』というのは大切にしてくださると言うことであり、パウロはユーラクローンの中にあっても、神様が自分の存在を大切にして下さることを宣言しました。
 第三の告白は、『私は神によって信じます』です。これは、パウロに対して神様が語った言葉をそのまんまパウロが信じたことを現わしています。パウロは、ユーラクロンの中にも、これらの信仰告白によって進み、神様の守りと導きと祝福を得ることが出来ました。

 私達も人生において、ユーラクロン(暴風)に遭遇することがあります。病という暴風、経済的な暴風、人間関係のトラブルによる暴風などなど、様々です。そして、このユーラクロンの中に、心が乱れ、迷いや不安が襲われ、様々なものを失い、希望も光もない状態に陥ってしまう事もあるでしょう。では、そのような時、私達は何を思い、何を考え、何をすべきでしょうか。もし、そのまま落ち込んでいたら、喜ぶのはサタン(悪魔)だけです。私達はサタンを喜ばすために生きているのではありません。私達は神様を喜ばせ、神様にあって私達自身も喜ぶために、この信仰の道を歩んでいるのです。

 だから、パウロのように、神様が私の神である事と私が神様の民である事を信じて宣言して行きましょう。また、私達は神様に仕える者である事を認め、主に仕える道を歩んで行きましょう。そして、神様の言葉を絶えず聞き、その言葉を信じて約束の祝福をゲットして行きましょう。

 パウロだけでなく、聖書の中には多くの聖徒がユーラクロンに遭遇しました。また、このキリスト教会の中においても、現在ユーラクロンの中を歩んでいる人もいます。しかし、その中に、神様は一人一人を決して離れず、捨てないでいてくださり、守り、導き、いつしかユーラクロンから解放して下さいます。また、このユーラクロンを通ることによって、私達の信仰は清められ、正され、強くされます。さらに、主に忠実な者になることが出来ます。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年2月18日(日)
礼拝メッセージ…馬と鹿…

わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。
                       聖書 テモテへの第1の手紙第1章5節


 先日、私の中学生の娘が、「バカ(馬鹿)は風邪引かない」について、おもしろいことを教えてくれました。この言葉の意味は、「バカは風邪を引いても気がつかない」っと言う事だそうです。(愉快な娘を与えて下さった神様に感謝です♪)
 ある本に、馬と鹿を見間違えたところから、馬鹿(バカ)という言葉ができたと書いてありました(ウソかホントかは定かではないですが・・・)。

 見間違える事は、誰にでもあります。そして、見間違える事によって、問題やトラブルが起こり、残念な結果になってしまうことがあります。例えば、信号を見間違えて事故を起こしてしまったり、地図を見間違えて、道に迷ってしまったり、賞味期限を見間違えて、腹をこわしてしまったり、真実と虚偽とを見間違えて、とんでもない人生に陥ってしまう事もあります。
 そして、クリスチャンの中にも、神様の御心を見間違えたり、神様の聖言葉の真意を見間違えてしまうことがあります。そして、これらの見間違いを起こさせるものが、肉の欲です。

 イエス様の弟子であったイスカリオテのユダは、賢く、様々な能力を持った人で会計のご用をしていました。しかし、彼は肉の欲が強い者でした。イエス様と共に生活し、イエス様の行なわれる奇跡の御業を目の当たりにし、また、イエス様の素晴らしいメッセージを絶えず聞くことが出来たにもかかわらず、肉の欲が強いが為に、盗みをし、お金をごまかし、最終的にはイエス様を売り飛ばす事をしてしまいました。

 肉の欲の強いクリスチャンは、神様の素晴らしい御言葉である聖書を自分の欲、計画、思い、考えに合わせて、選んで、当てはめようとする傾向があります。そして、耳障りの良い言葉だけを選んで、神様の御心からどんどん遠のいてしまい、結果、問題やトラブルを広げてしまう事になってしまいます。
 この肉の欲は誰にでもあります。もちろん、私にもあります。だから、、神様の御心を見間違えてしまう可能性は誰にでもあるのです。だから、日々の生活において、肉の欲が私達の心を支配しないように、祈りと御言葉と賛美をささげ、神様との交わりの中に生きて行くべきです。

 そして、本日の御言葉には、肉の欲を押さえて、見間違えないで進む為の3つの大切な事が記されています。

 第1は、清い心です。清い心は、汚れたものやきたないものから遠ざかろうとします。そして自分に真に必要なもの、不必要なものを明確に判断することが出来ます。さらに、清い心は神様の御心を深く知ることが出来ます。

 第2は、正しい良心です。良心は善悪を判断するところです。日本は、この判断を世論に託す傾向があります。だから、時代や流行で、善悪の基準が変わってしまうことがあります。また、この善悪の判断をするとき、基本的に自分に甘くなってしまいます。だから、今、私達は正しい良心をもって生きて行くべきです。正しい良心とは、判断基準を聖書に置くことです。神様が決められる善悪で生きて行くことが大切です。

 第3は、偽りのない信仰から出てくる愛です。これは、神様を信じることによって、神様に与えられた愛の事です。この愛をもって生きる時、私達は神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する素晴らしい歩みをすることが出来ます。そして、そこに平和と秩序が広がってきます。

 悪魔は、私達が様々なところで見間違えるように、誘惑し、惑わそうとしてきます。だから、私達は今、見間違えないように、肉の欲に生きるのではなく、清い心と正しい良心と神様からの愛をもって、この信仰の道を歩んでまいりましょう。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年2月4日(日)
礼拝メッセージ…2つの信じる事…

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
                       聖書 ヘブル人への手紙11章6節


 信仰がなくては、神に喜ばれることは出来ないと言う事は、逆に言えば、信仰がある時、たといどのような者であっても、神様に喜ばれることが出来ます。これは素晴らしい事です。
 そして、この信仰を持つ者が,信じるべき2つの事柄があります。それが本日のメッセージです。

 第一は、信仰者は「神様がおられる事」を信じます。当たり前の事なのですが、人間は弱い者で、この当たり前の事を、忙しさの中に忘れてしまったり、辛さや厳しさの中に疑ってしまったり、順調の中にその意識が薄らいでしまう事があります。だから、信仰者は、祈りとみ言葉と賛美をもって、神様がおられる事を信じて、感じて、感謝して行くべきです。
 信仰者にとって、祈りは呼吸です。神様に祈りの声を上げて、神様から愛の酸素をいただく。そして神様が一人一人の近くにおられる事を確信して行きましょう。
 また、信仰者にとって、み言葉(聖書)は食べ物です。キリストの命に生きるエネルギーは、この聖書です。日々聖書を読んで、神様からの慰めや励まし、愛や知恵をいただいて、神様がおられる事を強く覚えて行きましょう。
 さらに、信仰者にとって賛美は、神様への感謝を現す事が出来る素晴らしい方法です。そして、この賛美の中に、神様はご臨在して下さり、その臨在によって、神様による解放の業がなされて行きます。信仰者は、祈りとみ言葉(聖書)と賛美で、益々、神様がおられる事を強く確信して行きましょう。

 次に、信仰者が信じるべき事の2つ目は、「神様に求める者に報いて下さる事」です。神様は私達に『求めよ』と語り続けています。だから、私達は何でも求めてよいのです。ただ、全てが叶うわけではありません。それは、私達の求める事が、私達自身にとって最善とは限らないからです。神様は、始めから、私達が弱さや愚かさの上で、無茶な事を求めてくるのを知っています。それでも『求めよ』と語って下さり、その求めを愛をもって聞き、神様の最善をもって報いて下さいます。神様の最善が私達にとってのベストです。ここで一つ素晴らしい詩を紹介します。

 私は神に強さを求めた 何かを成し遂げる為に 
 すると私は弱くされた 従うことを謙虚に学ぶように
 私は神に富を求めた 幸福になる為に 
 すると私は貧しくされた 知恵ある者となるように
 私は神にあらゆるものを求めた 人生を楽しむ為に 
 すると私にはいのちが与えられた あらゆるものを楽しむように
 求めたものは何一つ手に入らなかったが 
 望んでいたものは全て与えられた
 的外れの私の祈りにも関わらず 
 神は言葉にならない私の本当の願いをきいて下さった
 私は誰よりも豊かに祝福を受けている (涙のち晴れより抜粋)

 今、私達は安心して神様に求めて行きましょう。そして、神様が応えて下さる最善を感謝して受けとめて行きましょう。

 私達は、今、イエス様によって信仰が与えられ、神様がおられる事と神様が求めに対して報いて下さる事を信じる事が出来るようにされました。信仰者としてこの2つの事を強く信じて、神様の恵みに生きて行きましょう。ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年1月21日(日)
礼拝メッセージ…よきサマリヤ人…

ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
                          聖書 ルカによる福音書 第10章33節〜35節


 本日の聖書の「よきサマリヤ人」の話は、こどもの頃から、教会学校で紙芝居やビデオなどで何回も教えられてきた個所です。そして、私は牧師になってからは、この個所から、ほとんどメッセージをしていませんでした。それは、この話に出てくる律法学者やレビ人が、現代においては牧師や伝道師のようで、彼らの行動を見て行くと、私自身責められるような感覚を覚えていたからです。ここに出てくる律法学者やレビ人は、盗賊に襲われて瀕死の状態で倒れている人をほっといて道の反対側を通り過ぎて行きました。もしかしたら、私もそのような者かも知れません。

 みなさんも聖書を読んで、心を責められるような時があると思います。たぶん、それはお一人お一人に必要な御言葉です。しかし、それが守れないから、出来ないからと言って、律法的に考えて自分を責めて、苦しい信仰生活をする事を神様は望んでいません。もちろん、改善や成長は必要ですが、まず、私達は神様の恵みに目を留めて行くべきです。

そこで、本日、私達が目に留めるべき事は、この「よきサマリヤ人はイエス様ご自身である」と言う事です。そして、半殺しにされて瀕死の状態になっているのが私達です。
 実際、今、強盗に襲われて瀕死の状態に陥っている人はいないかも知れません。しかし、その心の中は、罪、失敗、誰かからの非難や中傷により、傷つき、苦しい状態にあるのではないでしょうか。その厳しい状態中にいる者に、イエス様は、このサマリヤ人のように愛の行動をして下さいます。では、サマリヤ人の行動を通して、イエス様の愛を確認してまいりましょう。

 まず、サマリヤ人は、この悲惨な人をかわいそうに思い、近づいてきました。イエス様も私達がどんな状態にあろうが、近づいて来て下さいます。

 次に、その傷口にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてあげました。イエス様も私達の罪という傷口に、ご自身の血潮を注ぎ、ゆるしという包帯をして下さいました。

 さらに、このサマリヤ人は、自分の家畜にその人を乗せて、宿屋に連れて行き、介抱し、さらにさらに、その宿賃まで支払ってくれました。

 そして最後に、宿屋の主人に『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言ってくれました。ちなみに、半殺しにされて悲惨な状態になったのはユダヤ人で、当時、サマリヤ人とユダヤ人は仲が悪く、敵対していました。このサマリヤ人にとって、ユダヤ人を助けても何の得もないどころか、時間も労力もお金の面も大きな損をしました。

 実は、イエス様も私達に対して、愛を与え、ゆるしを与え、癒しを与え、命まで与えてくださいました。考えてみると、イエス様は大きな損をしています。しかし、イエス様は、私達のために喜んで損してくださるお方です。それほどにまで、私達を愛して大切に思ってくださるのが、イエス様です。

 私達は、まず、この恵みに心から感謝しましょう。感謝し続けましよう。そして、私達が感謝して、イエス様の愛と恵みに生きて行くとき、いつの日にかイエス様のように、弱っている人、悲しんでいる人、病んでいる隣の人に対して、愛を示すことが出来るようになります。 ハレルヤ♪

[ページtop]

2007年1月14日(日)
礼拝メッセージ…イエス様の問いかけ…

イエスは彼女に言われた「わたしがよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」。
                        聖書 ヨハネによる福音書第11章25節〜26節

本日の聖書には、イエス様によって、ラザロがよみがえった奇跡が記されています。ラザロは、姉マルタと妹マリヤの3人で暮らしていました。そして、イエス様は、この3人を特別に愛しておられました。(ヨハネ福音書11の5参照)

 しかし、ラザロが病気で死んでしまいました。イエス様はそれから4日たってから、その所に来られました。そして、悲しみに沈んでいた姉マルタに、一つの宣言と一つの問い掛けををしました。それが本日の聖言葉です。

 この言葉を言われたマルタは、その真意を全て理解し納得していたのではないと思います。しかし、マルタはイエス様の問い掛けに対して『主よ、信じます』と答えました。そしてその信仰にイエス様は奇跡の御業を行い、ラザロをよみがえらせました。 ラザロをよみがえらせたイエス様ご自身がよみがえりであり、命であり、死と生を支配されているお方です。また、よみがえりと言う言葉には、回復と言う意味があり、現代に生きる私達にもイエス様は、素晴らしい回復を見せてくださいます。 まず、信仰の回復です。信仰というのは歩みです。その歩みの中で、つまづいたり、転んだり、迷ったりする事もあります。現に、日本のクリスチャンの中にも多くの人が、信仰のスランプに陥り、神様との関係が希薄になって、教会から離れています。しかし、そこにもイエス様は回復の御業を現して下さいます。だから、たとえ信仰生活でつまづいても、回復の恵みを信じて下さい。

  第2は、愛の回復です。今、神様の愛を知らない人、感じられない人が多くいます。クリスチャンの中にもいます。イエス様は、もう一度、もっと強く神様の愛を感じる事が出来るようにして下さいます。そして、私達が神様を愛する事が出来るように備えて下さいます。

  第3は、清さや正しさの回復です。世の中はどんどん清さや正しさから離れています。そして、その悪影響がクリスチャンの中にも及んでいます。だから、イエス様による清さや正しさの回復が大切です。

 第4は、平和の回復です。これは愛し合い、ゆるし合う事の回復です。これによって、楽しさや喜びの回復につながります。

 第5は、健康の回復です。生きていれば、多かれ少なかれ、疲れたり、病んだり傷ついたりする事はあります。しかし、イエス様の所には癒しがあります。だから健康の回復を得る事が出来るのです。

  第6は、祝福の回復です。現在、クリスチャンの中にマイナス面ばかりが気になって、否定的、消極的、自虐的に物事を考え、神様からの素晴らしい祝福が見えなくなっている人がいます。イエス様は、そのマイナスを取りのけ、祝福を回復して下さいます。
 これらの素晴らしい回復が、イエス様によって備えられています。そして、この回復を得る方法はただ一つ!マルタのように『主よ、信じます』と信仰をもって宣言する事です。今のあなたの状況が、悲しみのどん底でも、完全なの絶望でも、関係ありません。イエス様は、よみがえりであり、回復の神です。
私達は、信じて、イエス様によるところの素晴らしい回復を体験し、そして、感謝して行きましょう♪ハレルヤ!


[ページtop]

[ページTOP]