2006年12月24日(日) |
礼拝メッセージ…光の子として… |
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あなたがたは、以前はやみであったが、
今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。
光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである。
聖書 エペソ人への手紙 第5章8節〜9節
イエス様のご聖誕をヨハネ福音書では、『全てを照らす真の光があって世に来た』と現わしています。イエス様は、真の光であり、全ての人を照らして下さいます。しかし、多くの人がその光に気づかなかったり気づかないふりをして、いまだに暗闇の中を歩んでいます。暗闇の中にいると、いろいろなものが見えなくなってしまいます。美しいものや楽しいもの、素敵なものが見えないばかりか、自分にとってマイナスになる悪や汚れも見えなくなってしまいます。当然、危険と隣り合わせになってしまいます。さらに、見えないことによって、自分の心の中に不安や恐れが広がってしまいます。だから、今、全ての人にイエス様という真の光が必要なのです。
そして、今、先にイエス様を信じた者達が大切な役割を果たすべき時です。本日の聖書では『以前は闇であったが、今は主にあって光となっている』と記されています。真の光であるイエス様を信じる者は、光となることが出来ます。だからこそ、光の子らして歩むことが、私達の使命であります。
では、実際に光の子として、どのように生きていけばよいのでしょうか。3つあります。
第1は、光であるイエス様との関係を大切にして生きる事です。信仰による祈りと聖書と心からの賛美をもってイエス様との関係をより強く確かなものにして行きましょう。イエス様との関係において、注意しなければならない事があります。それは、イエス様と自分との間に人を入れない事です。もし入れてしまうと、自分はその人の影の中に入ってしまうことになります。イエス様と自分の間に何も入れないで、イエス様の恵みの光を思いっきり受けて下さい。
光の子として歩む第2は、光を輝かし続ける為の聖霊様を毎日、歓迎し、認め、委ね、感謝して行きましょう。聖霊様の油注ぎによって、私達は光の子として、燃え続け、輝き続ける事が出来ます。
第3は、光の子として、世に向けて光を輝かして行きましょう。福音の光を家庭で、職場で、学校で、教会で、あらゆる交わりの中に、輝かして下さい。私達は、その場所をキリストの光で明るくすることが出来ます。
イエス様は、約2000年前にこの地上に来られ、十字架の死と復活により、全ての人の救いの道を開いて下さいました。そして、救いの光、愛の光、清い光、義の光を注いでいて下さっています。この光に照らされて、光の子として生き、世の中をこの素晴らしい光で明るくしてまいりましょう♪メリークリスマス☆
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2006年11月26日(日) |
礼拝メッセージ…イエス様を思う… |
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そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。
聖書 ヘブル人への手紙 第3章1節
イエス様を信じて、私達は魂の救い、癒し、聖霊、祝福、天国の約束が与えられました。感謝な事です。しかし、実際の生活の中で、この恵みを生かしきれていない現実があります。聖書の中に記されている神様の約束の恵みをいただいていない現実があります。
そこで、もっと神様の恵みに生きるために必要なのが、本日の聖言葉です。『わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである』。この『思いみるべきである』と言う言葉は新改訳聖書では『考えなさい』と訳しています。また、現代訳聖書では『心にとめなさい』と書かれていました。私達は日々の生活の中でイエス様のことを心にとめ、考え、思って行くことが大切です。
そこで、まず、十字架にかかられたイエス様を思って行きましょう。イエス様は十字架の上で、肉体的、精神的、霊的な苦痛を背負われました。それは、私達一人一人の罪のためです。そして、この苦痛により私達は救われました。さらに、このイエス様の十字架により私達は癒されたと言う現実を覚えて行くべきです。私達は生活の中で、苦痛を感じることがあるでしょう。しかし、聖書に『その打たれた傷によって、癒されたのだ』と書かれています。たとえ、傷を受けて苦痛を感じることがあっても、イエス様の癒しがあることを信じて下さい。ある宣教師が日本のクリスチャンに向けて次のようなメッセージを送っていました。「いつまでも傷を見ていないで、癒し主であるイエス様を見なさい。そして、癒された姿を想像して希望を持ちなさい!」。確かに、傷を見ていても何も変わりません。癒して下さるイエス様を見て、思って、変えられて行きましょう。
次に、イエス様の神様に対する姿勢を考え、心にとめて行きましょう。イエス様は神様に対して、信頼と従順を貫き通しました。特に神様の言葉に対して疑うことなく、何が何でも従いました。そこに、奇跡と祝福が現れていったのです。私達も日々聖書を開き、神様の言葉に耳を傾け、その言葉を信頼して、従って行きましょう。そして、神様の奇跡と祝福を見て行きましょう。
そして、最後に、イエス様の人に対する姿勢を考え、心にとめて行きましょう。イエス様は人々に対して、3つの姿勢をとりました。「@愛するAゆるすB与える」です。そして、今も私達に対して、愛し、ゆるし、与え続けて下さっています。愛し、ゆるし、与えるイエス様のことを思い、私達もイエス様のように、隣人に対して、愛し、ゆるし、与えて行きましょう。
私達は、日々、イエス様のことを思い、イエス様の歩まれたように歩み、もっと、神様の奇跡と祝福の御業を味わってまいりましょう。ハレルヤ♪
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2006年11月12日(日) |
礼拝メッセージ …何を蒔くか… |
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わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。
たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
だから、機会あるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、
善を行おうではないか。
聖書 ガラテヤ人への手紙 第6章6節〜10節
ある農夫が、豆の種を蒔いて、豆を収穫しました。さらにカボチャの種を蒔いて、カボチャを収穫しました。これは、当たり前のことです。豆の種を蒔いて、キュウリが収穫できない。カボチャの種を蒔いて、スイカが収穫できないと言うのは、おかしな事です。
しかし、人間は、神様との関係において、また、隣人との関係において、「蒔いた物を刈り取る」と言う当たり前の法則を理解しないで、トラブルを起こしたり、理不尽な行動に出てしまったりする事があります。例えば、不機嫌な思いで行動して、周りや相手が不機嫌になると怒ってしまう。不機嫌の種を蒔いて、喜びを刈り取ろうとするのは、無理な話。また、憎しみの種を蒔いて、平和の刈り取りをするのも無理。さらに、不平不満の種を蒔いて、楽しさを刈り取ろうとするのも無理。
実は、私達は日々の生活で、自分では気がつかないうちに、マイナス的にものを蒔いてしまうことがあります。だから、今、聖書を通して、「何を蒔いて、何を刈り取るか」を教えられ、実際にそれを蒔いて行くべきです。
まず、私達は神様に対して蒔くべきものがあります。第1は悔い改めの種です。自分の不義、罪、失敗を神様の前に正直に打ち明けて、イエス様に寄るところのゆるしを求めていくことが大切です。不義、罪、失敗を自分の内にとどめておくと、神様との距離がどんどん広がってしまいます。それらを悔い改めていくとき、人格が再創造され、恵みの通路が開き、イエス様と同じ人格を持つことが出来るようになります。悔い改めの種を蒔いていくとき、神様はゆるしを与えて下さり、私達は平安を刈り取ることが出来ます。
第2は、信仰の種です。これは、神様に期待することです。私達の信じる神様は、全てを持っていて、私達の必要を満たすことが出来るお方です。決してケチなお方ではありません。そのことを信じて、祈り求めて行くとき、神様はその信仰に応えて下さいます。信仰の種蒔きは、祝福や癒しや奇跡を刈り取ることが出来ます。
第3は、愛の種です。神様に愛の種を蒔くとは、神様を愛して生きることです。神様を愛する者に、神様はその行くべき道を示して下さいます。よみがえられたイエス様は、ペテロに『あなたはわたしを愛するか』と三度聞かれました。ペテロはイエス様に『主よ、あなたは全てをご存じです。わたしがあなたを愛していることはお分かりになっています。』と答えました。そのペテロにイエス様は『わたしの羊を養いなさい』と語られ、ペテロが行くべき道を示されました。私達も神様を愛して行く時、神様は、一人一人にその行くべき道を示して下さいます。そして、その道は、神様が伴って下さる確かな道です。時には厳しい中を歩むこともあるかも知れませんが、神様に生かされ、喜ばれ、人々に喜ばれ、福音が前進する歩みをする事が出来ます。神様に愛の種蒔きをして行くとき、素晴らしい刈り取りをすることが出来ます。
私達は、まず、神様への素晴らしい種蒔きをして行きましょう。そして、同時に、隣人に対しても、本日の御言葉通りに、善の種を蒔いて行きましょう。善の種蒔きとは、神様から受けた愛と恵みをもって、隣人に接して、出来る事をすることです。それらをして行くときに必ず、平和や楽しさ、一致や喜びの刈り取りをする事が出来ます。
私達は、神様に対して、隣人対して、良いものを蒔いて、良い刈り取りをして行きましょう。そこに聖霊様も必ず伴って下さいます。ハレルヤ♪
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2006年10月22日(日) |
礼拝メッセージ …富む者… |
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あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。
すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。
それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。
聖書 コリント人への第二の手紙第8章9節
私達は、聖書を通して、自分がいかなる者であるか、また、どのような者になる事ができるのかを知るべきです。そして、実際にその恵みに生きる事が大切です。
本日の聖書では、私達が「富む者」であると語っています。私達はイエス様によって、あらゆる面において富む者とされました。しかし、私達は一つ大切な事を覚えておかなければなりません。それは、私達が富む者となる為に、イエス様が貧しくなられたと言う事です。イエス様が十字架にかかり、私達の受けなければならない貧しさを身代わりに受けて下さったから、私達は富む者になる事ができるのです。本日は、4つの面の富む者についてメッセージをさせていただきます。
第1は、「健康の面において富む者」となれるです。聖書に『その打たれた傷によって、我々は癒されたのだ』とあります。イエス様が十字架の上で打たれ、苦しまれたのは、私達が癒しを受ける為です。私達の全ての病は、イエス様によって癒されます。また、心の病や傷もイエス様によって癒されます。私達は健康の面で富む者とされています。
第2は、「経済の面で富む者」になれるです。聖書に『木にかけられる者は呪われる』と書いてあります。私達を貧しくする呪いは、イエス様が十字架にかかって取り除いて下さいました。そして、今、私達は祝福の神様、無尽蔵の富を持っておられる神様に頼って生きる事が出来るようにされています。私達はイエス様によって経済的に富む者とされています。
第3は、「信仰に富む者」となれるです。イエス様の十字架によって、神様と私達の間にあった「罪と言う中垣」は取り除かれました。だから、今、神様に遠慮無く近づき、頼る事が出来る信仰に富む者にされています。だから、全ての問題、悩み、トラブル、思い煩いがあっても大丈夫です。信仰に富む者として神様に頼っていく時、それらのものは、神様の勝利(解決)を見る事の前触れに過ぎなくります。私達は今、信仰に富む者とされています。
第4は、「愛に富む者に」なれるです。イエス様によって、今、私達は神様の愛を豊かに受けています。私は何を見ても、神様の愛を感じます。朝焼けの美しい空模様や夜空に輝く月や星、紅葉している木々の葉っぱ、海の波、そよぐ風、また、共に礼拝出来る兄弟姉妹、愉快な家族などなど、とにかく神様が私を愛して、私を幸せにして下さる。この愛は、私にだけではない。イエス様によって信じる者全てに、与えられる恵みです。そしてさらに、この愛を受ける者は、与える者に変えられて行き、豊かな富む者になる事が出来るのです。
今、私達は、イエス様によって富む者とされました。富む者として生き、与え、ささげ、仕え、従って行きましょう!ハレルヤ♪ハレルヤ♪ハレルヤ♪
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2006年10月8日(日) |
礼拝メッセージ …死の陰の谷… |
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『主は私の牧者であって、私には乏しいことがない。
主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水場に伴われる。
主は私の魂を生きかえらせ、御名のために私を正しい道に導かれる。
たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。
あなたが私と共におられるからです。
あなたのむちと、あなたの杖は私を慰めます。』
詩篇23編1節〜4節
死の陰の谷とは、死に直面した状況を現わします。そこまでは、なくても、厳しい現状や心に強く痛みを覚える体験、孤独を感じる時、病に打ちひしがれる状況に陥るなどの経験の一つや二つはあるのではないでしょうか。
本日はそのような時に、覚えていただきたい二つのことをお話しします。
第一は、神様に用いられようとする者は、死の陰の谷の中を通ると言うことです。神様は、一人一人を無意味に苦しめることはされません。厳しい現状に置かれると言うことは、神様に用いられる前触れです。
第二に、死の陰の谷の中でも、神様は私達の牧者であると言うことです。そして、慰め、励まし、癒し、導き、必ず、緑の牧場に、憩いの水場に連れて行って下さいます。
だから、私達は、いかなる時にも、神様に信頼して、神様に希望を持って、信仰の道を歩んで行きましょう。ハレルヤ♪
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2006年9月24日(日) |
礼拝メッセージ …愛の歌… |
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『わが愛する者の若人たちの中にあるのは、 林の木の中にりんごの木があるようです。 わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。 彼の与える実はわたしの口に甘かった。』
聖書 雅歌第2章1節〜3節
人は生きて行く上で、様々な問題や悩みや迷いを持ちます。真剣に生きようとすればするほど、それらは多くなります。しかし、安心して下さい。それらの全ての答えは聖書にあるからです。この「全て答えは聖書にある」と言うのは、以前、ある教会の牧師先生がメッセージの中で語っていた言葉ですが、これは真理です。
例えば、人間が昔から悩んで探して求めている「不死や不老長寿の問題」の答えは、聖書の中にあります。イエス様を救い主と信じる者には、永遠の命が与えられます。この命は、天国で生きる命であり、この世にあっても、神様の恵みに生きる命です。
また、人間の悩みや思い煩いの種になっているのが、人間関係の問題です。この人間関係のトラブルは、良い生産をストップさせます。ある会社員が「私は働くのは好きです。仕事も辛くないです。ただ、一緒に働く人との関係がうまくいかないから、仕事に実が入らない」と語っていました。また、ある学生が「私は小学生の時から勉強も好きじゃなかったけど、学校は嫌いじゃなかった。友達や先生に会えるし、楽しかった。でも今は、友達との関係がうまく行かず学校に行ってない」と寂しそうに語っていました。また、ある夫が「私は家でゆっくりするのが好きです。仕事が終わったら、すぐに帰りたい。しかし、妻がまだ起きているから、今日も一杯やってから帰ります。」と語っていました。(私の事ではありませんよ!念のため!)
この人間関係のトラブルは、現代、様々な悲惨な事件を起こしています。憂慮すべき問題です。しかし、この問題の答えも聖書の中にあります。イエス様は『あなたの隣人を愛せよ』と語っています。これが答えです。隣人は、あなたと違う存在です。姿はもちろん、思い、考え、価値観、感性、趣味、好み、様々な違いがあります。違って当然です。ただ、その違いを見つめ、違いを批判さ合っていては、良い関係は生まれません。愛し合う為には、違いを認めつつ、その存在を大切にする。これが、隣人を愛する事です。このように、イエス様は、人の抱える全ての問題の答えを聖書を通して教えています。
では、本日の御言葉は、人間の何の問題の答えなのでしょうか。本日の雅歌は、愛の歌と呼ばれています。ある人が「この雅歌は、ラブレターの手本になるもの」と語っていましたが、確かに、読んでいてドキドキするような言葉が出てきます。本日の御言葉もそんな感じです。『おとめのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ』。この男性の愛の言葉によると、その女性はゆりの花で、周りの女性は、いばら。もの凄いコメントです。
実はこの男性は神様で、女性は教会である私達の事を表しています。神様にとって私達は、ゆりの花のように素敵で美しい存在。私達はその事を日々心に留めて行きましょう。悪魔は、私達の失敗や愚かさをつっついて、絶望させるようにしてきますが、私達が今、耳に、心に留めるべきは、神様の言葉です。だから、私達は、いばらのような世の中にあって、ゆりの花です。感謝です。
次に、神様の愛の言葉に対する女性の言葉をを見て行きましょう。この女性は、神様に対して、『わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。』とコメントしています。林の中にりんごの木を見つけたら、嬉しいと思います。神様は、私達を嬉しくさせて下さるお方です。そして、この女性は、喜びをもって、そのりんごの木の下に腰を降ろしました。私達も神様の所に喜びをもって、期待をもって集まって行きましょう。
さらにこの女性は『私の口に…』と語っています。神様の与える実(恵み)は、私達にとって甘いものです。一般に、甘いものは、私達をホッとさせ幸せな気分にさせてくれます。
神様が私達に与える甘い実は、気分だけではなく、実際に幸せにします。第1に、救いの実です。魂の救いだけでなく、日々の生活における様々な救い(解決)を与えて下さいます。第2に、聖霊の実です。私達を正しい方へ、平和な方へ、清い方へ、素敵な方へ、神様の御心の方へ導いて下さいます。逆らわないで、聖霊様の風に流されて行きましょう。第3に、癒しの実です。神様は全ての全ての癒し主です。体も心も生活も家庭も会社も学校も、神様が癒して下さいます。癒しを求めてまいりましょう。第4に、祝福の実です。神様は私達の日々の生活を満たし、潤し、豊かにし、楽しませて下さいます。現代のクリスチャンは、もっと味わうべきです。第5に、天国の実です。これは何にも勝る確かな保証です。
神様は、これらの恵みをイエス様を通して、私達に与えようと準備し、そして実際に与えて下さっています。ありがたい事です。私達はもっともっと感謝して、これらの恵みに生きて行きましょう。
そして、ゆりの花として、世に恵みを届けて行きましょう!ハレルヤ♪
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2006年9月10日(日) |
礼拝メッセージ …神様の勝利を見る… |
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信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
聖書 ヘブル書第12:1節〜2節
以前、ある若者が私に「教会はオーケストラー」と言う素晴らしいメッセージをしてくれました。内容は、「教会はオーケストラーで、指揮者はイエス様!楽譜は聖書!そして奏でるのは福音!」。そして、今回はこのメッセージを皆様にお届けします。
教会とは、建物の事ではなく、イエス様を信じる私達一人一人の事です。そして、その一人一人は、福音という素晴らしい音を奏でる奏者です。そして、全員が教会オーケストラーとして大切な存在です。だから、一人として不必要なクリスチャンはいません。
そして、福音を奏でる奏者である私達一人一人にとって、大切な事は、指揮者であるイエス様から目を離さない事です。指揮者であるイエス様から目を離すと、隣の人を悪いところが見えたり、ねたみを持ってしまったり、ろくな事がありません。だから、本日の御言葉通りに、信仰の導き手であり、完成者であり、教会の指揮者であるイエス様を見上げて行く事が大切です。
では、実際に、目に見えないイエス様をどのように見て行けばよいのでしょうか。それは、信仰をもって生きると言う事です。まず、信仰をもって、聖書を開いて行きましょう。先ほども言いましたが、聖書は楽譜です。私達が福音を奏でるのにはどうしても必要なものです。また、聖書は神様からのちょっと長いラブレターです。確実に私達を幸せにする道が記されています。だから、読まなきゃ損ですよ。
第2に、私達は信仰をもって祈って行きましょう。イエス様は絶えず私達に『わたしに何をしてほしいのか』と語っています。だから、祈らなきゃ損ですよ。そして、実際に私達は聖書の中に書いてある様々な祈りをまねして祈って行きましょう。ヤベツの祈り『私を大いに祝福し、私の地境を広げて下さい。御手が私と共にあり、災いから遠ざけて、私が苦しむことがないようにして下さい』。ヤベツとは、苦悩と言う意味があります。苦悩の多い人は、ぜひこのヤベツの祈りを毎日して下さい。また、その他にモーセのとりなしの祈りやパウロの祈りやステパノの祈り、そして、何よりイエス様が教えて下さった「主の祈り」をして行きましょう。祈りは問題を解決し、自分を変え、人を変え、教会を変え、家庭を変え、日本を変えます。イエス様の御名によって祈る時、神様が変えて下さいます。
第3に、信仰をもって賛美するです。私達は礼拝や集会でメッセージの前に賛美をします。しかし、賛美はメッセージの前座ではまりません。賛美は神様を喜ばせる大切な行為です。そして、この賛美は気分がいいから悪いからでしたりしなかったりするレベルのものでもありません。神様が私達の神様であられるがゆえに、私達は賛美をささげるべきです。そして、信仰による賛美には、主の臨在があり、主による癒しや解放がなされます。信仰をもって賛美して行きましょう。
そして、第4は、信仰によって伝道するです。聖書に『時が良くても悪くても、御言葉をのべ伝えなさい』と記されています。今、一人一人が信仰をもって、福音を伝える業に参加して下さい。
私達は教会オーケストラーです。信仰の導き手であり、その完成者であるイエス様に目を向けて、天国に行くまで、この信仰の道を共に歩んでまいりましょう。指揮者であるイエス様は今、この日本のクリスチャンに向かって、大きく福音の声を上げるように、タクトを振り上げています。ハレルヤ♪
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2006年9月3日(日) |
礼拝メッセージ …主を求めて生きる… |
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主はイスラエルの家にこう言われる、「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ。」
聖書 アモス書/5章4節
人は、それぞれ何かを求めて生きています。お金を求めて生きている人、権力や名誉を求めて生きている人。また、自分の幸せを求めて生きている人。もちろん、何を求めて生きて行こうが自由です。しかし、その求めには、報いがあります。お金を求めて、家族や友達を失う人もいます。権力や名誉を求めて、優しさや仲間を失う人もいます。また、自分の幸せを求めて、誰かを不幸にしてしまう事もあります。では何を求めて、生きて行けばよいのでしょうか。
その答えは、本日の聖書に明確に示されています。神様は本日、私達に『あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ。』と声をかけています。
神様を求めて生きていく事は、全ての人にとって最高の道です。それは、神様の所には全てがあるからです。人はそれぞれ必要なものや求めるものが違います。しかし、神様は、その全てを満たす力と富を持っておられます。だから、私達は、神様を求めて生きるべきなのです。
では、実際に神様を求めて生きるとは、どういう事でしょうか。神様を求めて生きるとは、第1に、神様を愛する道です。私達は神様に愛されています。イエス様を十字架につけてでも、私達を救いたいと思うほど、神様は私達を愛しておられます。その大きな愛に応えて、神様を愛する方法があります。礼拝です。神様は礼拝する者を求めておられます。神様の求めに応える事が、神様を愛する事です。神様を愛する道を進んでまいりましょう。
神様を求めて生きる第2の道は、神様に頼るです。聖書に『神には何でも出来ない事はない』と記されています。私達はもっと神様に頼るべきです。信仰や教会の事はもちろん、家庭や仕事、教育や経済、恋愛や健康、とにかく全ての面で、もっと神様に頼るべきです。そして、神様は時として、私達に頼る事を教える為に、試練を与えられます。試練によって、痛みや悲しみや苦しみを覚え、自分の弱さを知ります。そして、神様に頼る事の大切さを知る事が出来ます。聖書の中に出てくるヤコブと言う人は、様々な試練の道を通り、最終的に神様と相撲をとり、神様に腰を打たれ、杖無しでは歩けなくなりました。しかし、ヤコブは神様と言う最高の杖をついて、その後の人生を歩み、幸いを得ました。私達も神様を頼りにして、神様を求めて生きて行きましょう。
第3の道は、神様に従うです。従うには、まず聞かなくてはなりません。日々、神様の声を聞くべく、聖書を開いてまいりましょう。そして神様の言う通りに行ってまいりましょう。それが従うと言う事です。時には、神様の声と自分の意志や計画と違う事もあるでしょう。しかし、神様の声に従う先には、必ず、祝福があります。
神様は今、私達に『わたしを求めて、生きよ』と声をかけています。この御言葉通り、神様を愛して神様に頼って、神様に従って、生きて行きましょう!神様の恵みと憐れみの伴う人生を歩む事が出来ます!ハレルヤ♪
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2006年8月6日(日) |
礼拝メッセージ …ニコデモ… |
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『イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。 だれても新しく生まれなければの国を見ることはできない」。』
聖書 ヨハネによる福音書3章1節〜3節
本日の聖書は、ニコデモの話です。彼は、ユダヤ人の指導者であり、議員でもありました。当時のイスラエルにおいて、経済的にも恵まれ、地位も名誉もある立場にいました。しかし、彼の心の中には、真理に対する探求が強くあり、イエス様の所へ夜中に行きました。夜中に行った理由は、他の指導者や議員達の目が気になっていたからです。
人は誰でも多少は人の目が気になります。しかし、人の目を気にしながらでもいいから、イエス様の所に行くことが大切です。
ニコデモは、イエス様に「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」と話しました。それに対してイエス様は、「よくよくあなたに言っておく。だれても新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語られました。この二人の会話は、なんだか噛み合っていないような気がします。ニコデモは、イエス様に挨拶代わりの尊敬を現わす言葉を話しました。いわゆる前置きです。しかし、イエス様はストレートに真理を語ってきました。
実は、私達もイエス様に何かを求める時、願う時に、前置きをしてしまうことがあります。しかし、イエス様は、私達に対していつも「わたしに何をしてほしいのか」とストレートに語っています。イエス様に対して、前置きも遠慮もいりません。
イエス様は、ニコデモの求める所を知った上で、真理の答えを語って下さいました。しかし、ニコデモはその真理を理解することが出来ませんでした。イエス様の語られる真理や聖書の御言葉は、人間的な理解や知識で受けとめようとしても無理です。イエス様の語られる真理や聖書の御言葉は、信仰によって初めて真の理解をすることが出来、神様の恵が見えてくるのです。
理解できなかったニコデモに対して、イエス様は、最後に、聖書の中の聖書と言われている御言葉を語りました。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に使わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」。
この御言葉には、3つの大切な教えが記されています。第一は、神様が私達を愛している事。第二は、その愛の現われがイエス様である事。そして第三は、そのイエス様を信じる者は、滅びないで永遠の命が与えられるという事。
ニコデモは、この真理を全て理解できたわけではないけれど、その御言葉を受けとめました。そして、彼は変わってゆきました。
この後、ヨハネ福音書の7章のところで、ニコデモはまた、登場してきますが、その時は、イエス様を弁護する発言を他のユダヤ人指導者の前でも、はっきりとしています。さらに、イエス様が十字架にかかられ、死なれた後、墓に埋葬する大切な働きも、このニコデモがしたのです。
私達もイエス様の事やイエス様の御言葉をなかなか理解できないこともあるでしょう。しかし、大切な事は、ニコデモのようにイエス様に会いに行くことです。わからなくても聖書を開いて読んでみる!半信半疑でも手を組んで祈ってみる!よくわからなくてもイエス様に向かって声を上げ、賛美をしてみる!そこにイエス様は必ず応えて下さり、真理を示し、進むべき道を示して下さいます。そして、いつかニコデモのように、神様の働きに参加する者に変えられて行くのです。ハレルヤ!
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2006年7月30日(日) |
礼拝メッセージ 〜イエス様のお言葉〜 |
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『恐れることはない。だた信じなさい。娘は助かるのだ。 ・・・泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである。』
聖書 ルカ福音書/8章49節〜52節
本日の聖書であるルカ福音書の7、8章には、イエス様のお言葉が多く記されています。そしてその一つ一つが人々に慰めや励ましや安心を与えて下さるものです。
部下が病気になった百人隊長がイエス様の所に、助けを求めに来ました。そして彼はイエス様の言葉の絶対的な権威を認め、イエス様に次のようなお言葉をかけられました。『あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない』。イエス様にその信仰をほめられました。私もイエス様に「日本の中で…、神奈川の中で…、藤沢の中で…、羽鳥の中で…」なんて、言われたら嬉しいです。
次に、罪の女と言われていた人がイエス様の足を涙で洗い、髪の毛でふき、香りの良い油をかけました。イエス様は、その女の人に『あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』と語られました。イエス様を信じ、愛する者に、今もイエス様は同じ言葉をもって、慰め励まし、安心を与えて下さいます。
また、本日の御言葉も慰めや励ましや安心、さらに希望を与えて下さる御言葉です。この言葉をかけられたのは会堂司(会堂管理人)です。彼の娘が病気になって死にそうでした。そこでイエス様に助けを求めに行き、イエス様を家に連れて来る途中で、家の使いの者が走って来て「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言いました。お嬢さんが死んでしまったので、イエス様に来ていただいてもしょうがないと言うコメントです。まあ、人としての当然の判断です。私達も窮地に落とされたり、厳しい現状に追い込まれたりした時、「もうダメだ!やっぱし無理だ!しょうがないあきらめよう!」と人として当然の判断をしてしまいます。この会堂司も使いの者も同じ様に考えました。
しかし、イエス様は違います。イエス様は『恐れることはない。だた信じなさい。娘は助かるのだ』と語られました。さらにその家に着いて、泣いている者に向かって、『泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである』と語られました。
イエス様は、恐れなくていい!無理だと思わなくていい!あきらめなくていい!希望をもっていい!と語られました。
そして、このお言葉は、私達一人一人にも今、語られています。特に、本日はこの『眠っているだけである』と言う言葉に耳を傾けて下さい。これは死んではいないと言う事であり、あきらめないで希望を持つことが出来るお言葉です。
今、世の中の多くの人々が、正しい事や平和な事や真実な事に関して眠っています。さらに神様の事に関して眠っている人がいます。イエス様を信じずに、神様の恵みを知らずに生きている人々です。しかし、彼らに関しても、希望を持つことが出来ます。救いを受けるチャンスはあります。だから、救いにあずかっている私達が、声を上げて伝えるべきなのです。
また、クリスチャンの中にも、眠っている人がいる事実を認めるべきです。聖書の御言葉に関して眠っている人、信仰が眠っている人、神様の御心に関して眠っている人などかいます。これでは、神様の恵みが感じられなくなってしまったり、祈る事、聖書を読む事、賛美する事から遠ざかり、礼拝、集会から離れてしまいます。
しかし、それらの人々に関しても希望を持つことが出来ます。それは、イエス様が『死んだのではない。眠っているだけである』とこの日本においても語って下さっているからです。
さらに、この希望を裏付ける事があります。それは、このお言葉をかけて下さるイエス様には、眠っている人々を起こす力があると言う事です。
この後、イエス様は会堂司の娘の手をとって、『娘よ、起きなさい』と声をかけられ、完全に回復させられました。
私達も、今、人間的な判断であきらめたり、無理だと思ったりしないで、イエス様のお言葉を聞いて希望を持って生きて行きましょう!イエス様が起こして下さいます。ハレルヤ☆
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2006年7月16日(日) |
礼拝メッセージ 〜2つの絶望の中で〜 |
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『すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、 また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。』
聖書 ローマ書4章19節〜22節
不安などを生み出し、私達を落胆させます。そして私達の周りには、どちらかと言うと、希望より絶望の方が多いように思えます。だから、今朝、聖書を通して、絶望の中に生きる道を教えられて行きましょう。
本日の聖書箇所は、アブラハムの事が記されています。彼は一族の長であり、多くの人々を守り養う責任がありました。そして、もう一つ次の長を造ると言う責任もありました。神様の祝福を受継ぐ後継者です。しかし、この事に関して、彼は、2つの絶望を抱えていました。
一つ目は、アブラハム自身が、100歳を越えていて、子どもをつくる力がなくなっていたと言うことです。自分自身による絶望です。私達も自分を見て、がっかりしたり、落ち込んだり、絶望を抱えてしまうことがあるのではないでしょうか。自分の能力、自分の技術、自分の年齢、自分の体力などで、絶望してしまうことがないですか。
アブラハムの二つ目の絶望は、妻のサラの事です。サラは、不妊の女性でありました。子どもが出来る可能性は、ものすごく低いものでした。これは、他人がもたらす絶望です。私達も、誰かの言動によって、絶望させられたり、時代や環境によって、絶望する事もあるのではないでしょうか。
アブラハムも私達と同じ人間ですから、この絶望の中に、不安や恐れを覚えることがあったかも知れません。しかし、彼はその中にあって、絶対に離さないものがありました。それが信仰です。
神様を信じ、神様を見つめ、神様の声に耳を傾け、神様に期待すし、神様が自分の希望であることを認めて進みました。この信仰と言うのは不思議なもので、絶望が大きければ大きいほど、信仰は強くなって行きます。そして、神様は、その信仰に応えて下さるお方なのです。
アブラハムの信仰に、神様は豊かな祝福をもって応えられ、後継者であるイサクを与えて下さいました。2つの絶望の中から、神様はイサクという希望を与えて下さったのです。
今、希望の中に生きている人も、また、絶望の中に生きている人も、神様に対する信仰をもって進んで行きましょう。神様を見つめ、神様の声に耳を傾け、神様に期待し、神様ご自身を私達の希望として進んで行きましょう。いつか、必ず、神様の奇跡と希望と栄光を見ることが出来ます。ハレルヤ!
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2006年7月2日(日) |
礼拝メッセージ …良い羊飼い… |
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『わたしはよい羊飼である。よい羊飼は羊のために命をすてる』
聖書 ヨハネ福音書10の11
羊飼の仕事は、朝早く、羊を連れて牧草地へ行き、草を食べせて、その後、水辺で水を飲ませ、午後からは涼しい所で、羊を休ませて、その後もう一度、草を食べさせて、夕方、小屋に帰るそうです。もちろん、その全ての時において、羊達を守り、一匹一匹の羊に心を配ります。
本日の聖書では、イエス様が良い羊飼であり、私達一人一人がその羊である事を教えています。そして、イエス様は実際に私達羊の為に命を捨てて、私達に救いの草、病を癒す草を、呪いから解放される草を食べさせてくださいました。それによって、私達は神様の恵や助けを味わい、体験して生きる事ができます。このように、イエス様は、私達の良い羊飼いであり、また、詩篇23にある緑の牧場、憩いの水場であります。
実は現代のクリスチャンを含め、多くの人がある一つの勘違いをしています。それは教会の牧師が羊飼いで、教会が緑の牧場や憩いの水場と思っているところです。牧師もイエス様の一匹の羊であり、教会はキリストの羊の集まりであります。では、牧師や教会はいらないのでしょうか。そんなことはありません。
牧師は、一匹の羊でありますが、神様の御言葉を伝える大切なご用を任されています。また、教会は、人々をキリストの牧場に導く手段です。イエス様を知らない信じない人が多い現状にあって、クリスチャンがより大切な存在になるのです。
私達は今、キリストの羊として、また、キリストの牧場に人々を導く手段として、生きて行きましょう!実際には、良い羊飼であるイエス様から決して離れずに、益々癒され、清められ、満たされ、祝福され、そして、その恵をもって、一人一人の隣人に接し、恵を伝えて、証しして行きましょう!今、この世において、私達クリスチャン一人一人が最も必要とされている存在です。ハレルヤ☆
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2006年6月28日(水) |
水曜集会 …神様からの勧告… |
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詩篇81篇が開かれました。この詩篇には、神様からの勧告が記されています。
『わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。』そして、この御言葉の後に、2つの勧告が記されています。
第一は『あなたのうちに他の神があってはならない。』これは、真の神である私たげを信じ、私だけを愛し、私だけに求め、私に頼り、私と共に歩めと、神様が語っているのです。この勧告は、人の歩みを大きく左右する大切なものです。
第2は『あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。』これは、信仰をもって、神様に期待すべき事を教えています。私達は、実際に必要な様々な物がるでしょう。
また、解決されていない様々な問題をかかえている人もいるでしょう。だからこそ、信仰をもって、神様に祈り、求め、頼って行くべきです。神様がその信仰に応えて、満たし、解決を与えて下さいます。また、この詩篇には神様の願うところが記されています。『あなたがわたしに聞き従うことを望む。』です。神様の勧告に今、聞き従って、神様の望むところの道を歩んで行きましょう。ハレルヤ☆
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2006年6月11日(日) |
日曜礼拝 …力と愛と慎みとの霊… |
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というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
テモテへの第二の手紙 / 1章 7節
先週、ペンテコステ特別礼拝をささげさせていただきましたが、聖霊様は、一年に一回だけ、私達に臨んで下さるのではなく、今日も明日も天国に行くまで、私達一人一人に臨み、慰め、励まし、教え、導き、助けて下さる方です。そして、本日の御言葉は、その聖霊様が、私達の日々の生活にどのような働きをしてくださるかを教えています。
『臆する霊ではない』→聖霊様は決して私達を臆病にさせるお方ではありません。私達は信仰生活において、時として、ひるんでしまったり、立ち止まってしまったり、逃げ出したくなってしまう事があります。特に試練の中に陥ると、そのような思いになってしまいます。しかし、神様の試練には必ず、理由と目的があります。だから、試練の中にいる時は、逃げず、あせらず、神様に向かって思いっきり走って行きましょう!そして、試練の中にも聖霊様が臨んで下さる事を覚えて下さい。そして、実際に力と愛と慎みを私達の内に与えて下さいます。
この「力」というのは、特に信仰の力です。信仰とは、そもそも見えないものに目を注ぐ事です。今、一人一人の目の前に、厳しい現実があっても、目に見えない神様を信じた私達は、今は見えていない後の素晴らしい恵み、祝福、解決、回復を神様に期待する事ができます。この期待度(信仰の力)を大きくしてくださるのが聖霊様です。
次に「愛」です。聖霊様は、私達が神様に豊かに愛されている事を教えて下さいます。私達は生活の中で、失敗したり、つまずいたり、忙し過ぎたりして、神様に愛されている事を忘れてしまう事があります。聖霊様は、聖書を通して、また、様々な出来事を通して一人一人が神様に確実に愛されている事を教えて下さいます。
そして、最後に「慎み」です。慎みとは、謙遜と自制と言う意味があります。聖霊様は私達が神様の前に謙遜に生きるように導きます。それは、聖霊様が、聖書の『謙るものに恵みを賜う』と言う御言葉通り、神様の恵みを豊かに受ける者になる事を願っているからです。そして、私達が自制の心を持ち、神様の御心から外れる事がないようにも、聖霊様は願っています。
今、イエス様を救い主として信じる一人一人に、聖霊様が臨み、サタンが持ってくる臆病の心を取り除けて、力と愛と慎みを心に植えつけて下さいます。聖霊様に逆らうことなく、信仰の力と愛と慎み(謙遜と自制)をもって、神様に益々近づき、福音の前進の為に生かされ、用いられて行きましょう☆
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