2009年
礼拝メッセージ

日曜礼拝と水曜集会の礼拝メッセージです。
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2009年12月6日(日)
教会学校礼拝メッセージ 〜光〜

『わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。』ヨハネによる福音書12章46節

聖書クイズです。イエス様は聖書の中で「わたしは〜としてこの世に来た。」と言っていますが次のうちどれでしよう。
@わたしはウルトラマンとしてこの世に来た。
Aわたしは親切なおじさんとしてこの世に来た。
Bわたしは光としてこの世に来た。
正解はもちろんB番です。ちなみに@番のウルトラマンだったら3分間しかこの世にいられません。
イエス様は「光」としてこの世に来て下さいました。光には明るくする力があります。特にイエス様の光は人の心を明るくして下さいます。人の心は、悪いことをしたり考えたり、誰かを憎んだり恨んだりすると暗くなります。また、悲しいことや辛いことによっても暗くなります。そして、心が暗いままだと、さらに悪いことを考え、素晴らしいことや美しいことや楽しいことや幸せなことからどんどん離れてしまいます。
だから、今、イエス様を信じて、イエス様を心の中にお迎えして、私達の心を暗くするいらないものを取り除けていただき、明るくしてもらいましよう。
イエス様によって明るくされた心は、神様が与えて下さった様々な恵みをしっかり受け取ることができます。さらに、周りの人を喜ばせ楽しませる安心させるような人生を歩むことができます。イエス様は全ての人を照らして下さる光です。イエス様を信じて、明るく素敵な人生♪

2009年11月22日(日)
第2礼拝メッセージ 〜神様のなさる変化〜

地よ、主の前におののけ、ヤコブの神の前におののけ。主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。『詩篇114篇7節〜8節』

〜神様のなさる変化〜

朝の礼拝において、カナの婚礼の所から、信仰と神様の言葉(指示)と従順で、素晴らしい変化があると教えられました。カナの婚礼では、イエス様によって水がぶどう酒(液体から液体)に変えられましたが、夜の礼拝では、固体から液体への神様の驚くような変化の話です。神様は岩や石を池や泉に変えると宣言しております。
ここに出てくる「岩」や「石」は堅いものであり、動かず、役に立たず、人の歩みの妨げになるものです。そして、それが人を潤し、満たし、命をつなぐための「池」や「泉」に神様によって変るのです。
神様は、私達の岩や石がゴロゴロしているような心の中も変えて下さいます。私達の心を隣人を潤し、満たし、喜びと安心を与える水の絶えない池や泉のように変えて下さいます。

今、自分の心を覗いてみて下さい。岩や石がゴロゴロしていますか?それとも池や泉のように潤いがありますか?もし岩や石だなぁ〜と思う人は、神様による変化を体験して下さい。もし池や泉のようになっていると言う人は、その心から神様の愛や恵みをどんどん流しだして下さい。
ちなみに私は岩や石も一緒に流れてくる川のようになっていると思います。神様によって私自身も変えられて行きたいと思います。ハレルヤ♪

2009年11月15日(日)
教会学校メッセージ 〜親切な言葉〜

心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。『箴言12章25節』
〜親切な言葉〜
イエス様はいつでもどこでも誰に対しても親切な言葉をかけてその人を喜ばせました。
12年間病気で苦しみ、その治療費に財産を使い果たしてしまった女の人がいました。その女の人はイエス様の噂を聞き、イエス様なら私を癒して下さると信じて、イエス様の衣の裾に触りました。すると、神様の癒しの業がなされ、元気になりました。
ではここでクイズです。この元気になった女の人にイエス様は何と言ったでしょう?
@「勝手に触るな!」
A「は〜い!元気にしてあげたから料金2万円!」
B「あなたの信仰があなたを救ったのです。」
もちろんB番!イエス様はこの女の人に癒しと安心を与え、喜ばせてあげました。
イエス様は私達一人一人にも親切な言葉をかけ、その心に平安を与え、希望を抱かせ、喜ばせて下さいます。
さらに、イエス様を信じて行く時、イエス様と同じ心が与えられ、イエス様のように誰かを喜ばせる親切な言葉を使えるようになります。ハレルヤ♪

2009年11月8日(日)
第2礼拝メッセージ 〜両方〜

『あなたがこれを執るのはよい、また彼から手を引いてはならない。神をかしこむ者は、このすべてからのがれ出るのである。』
伝道の書7章18節

〜両方〜

ある中学生が「部活と勉強の両立はなかなか難しい」と言っていました。ある奥さんが「子どもの世話と夫の世話の両方は大変」と言っていました。ある夫が「仕事と家事の両方をするのは限界がある」と言っていました。あるクリスチャンが「信仰生活と家庭生活の両方はなかなか難しい」と言っていました。
2つの事を両立させたり、同時にするのはなかなか難しいです。そして、どちらか一つをとって、一つを捨ててしまう事があります。ある人が「捨てるのは簡単、しかし取り戻すのには時間もエネルギーもかかる」と言っていました。だから、安易に捨てないで両方を会得する道を歩んで下さい
その為には、本日の御言葉です。新改訳聖書では『一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者はこの両方を会得している。』と記されています。だから、両方を会得する為には『神様を恐れる事』です。神様を恐れるとは、その生活の全てにおいて神様を認め、神様に聞き、神様に求め、神様に祈り、神様に礼拝をささげて行く事です。神様を恐れて両方を会得して下さい。そしてさらなる可能性を広げ、良いものをたくさん発信して下さい。ハレルヤ♪

2009年11月8日(日)
礼拝メッセージ 〜パウロの祈り〜

こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。『エペソ人への手紙3章 14節〜19節』

〜パウロの祈り〜

聖書の中には様々な人の祈りが記されています。ダビデの祈り、ソロモンの祈り、ヤベツの祈り、ヨハネの祈り、主の祈りなどがあります。そしてその一つ一つの祈りが現代に生きるクリスチャンの信仰生活の姿勢を正し、生きる道筋や目標を明確にしてくれます。そして、本日はパウロの祈りを通して、それらを学んで行きましょう。
16節『どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように』。まず「内なる人を強くする」です。魂を強くすべきです。これは神様との関係をより深くするということです。何があってもなくても神様から離れない。何かあったらよけい神様に近づくことが大切です。また、心を強くすべきです。日々の生活で心が傷ついたり痛みつけられたりする出来事があります。だから、信仰が揺るがないように心を強くする必要があります。魂を心を強くするには、聖書の御言葉と聖霊様の力です。毎日聖書を読み、また聖霊様を歓迎し、聖霊様を認め、聖霊様に委ね、聖霊様に感謝することです。
17節『信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み』。つぎに「信仰によってイエス様に住んでいただく」です。今、信仰を持っているならばイエス様は一人一人の内に住んでくださいます。教会にいる時も、家庭にいる時も、職場にいる時も、学校にいる時も、どこにいてもイエス様が共にいて下さいます。イエス様は守りと助けと素晴らしい導きをもって共にいて下さいます。
そして、さらにイエス様が私達の内に住んで下さると『あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活する』のように愛に根ざし、愛を基とする生活を送ることができます。これは愛である神様に深くつながり、ゆるしと善意の心で生きることができるようになるのです。私達はとかく世の中の裁きと悪意の生活に影響を受けて、それに慣らされています。だからこそ、神様によるゆるしと善意の心で生きて行くべきです。
そとて、さらにさらに18節『すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ』。これは神様の広さ、長さ、高さ、深さを理解できるということで、平面の神様ではなく、立体の神様(現実に働かれる神様)を知り交わることができるのです。
19節『また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように』。イエス様の最高最大の愛を知り、神様の備えて下さるあらゆる恵みに満たされることができます。ちなみに神様の恵みは私達の生活の全てを豊かにすることができます。
パウロはクリスチャン一人一人がキリストにあって幸せになり、また一人一人を通して福音が前進することを願って、この祈りをささげました。私達自身も全ての源なる父なる神様に祈って、内なる人が強くされ、信仰によってイエス様に住んでいただき、ゆるしと善意の心をもって生活し、神様の様々な恵みの中を歩んで行きましょう。ハレルヤ♪

2009年11月1日(日)
教会学校礼拝メッセージ 〜イエス様のように〜

『おのおの、自分のことばかりではなく、他人のことも考えなさい。』ピリピ人への手紙2章4節

〜イエス様のように〜

 イエス様はいつでもどこでもどんな時でも、本日の聖書の御言葉通り、自分のことだけでなく他の人のことを考え、思い、行動していました。だから、病気の人がいたら祈って癒してあげました。悲しんでいる人がいたら、慰め、その原因を取り除け、元気にしてあげました。悩んでいる人がいたら、その答えを教え、素晴らしい導きを与えてあげました。また、悪の中を歩んでいる人がいたら、声をかけ、正しい道に導いてあげました。そして、イエス様によって、多くの人々が幸せな人生を歩みました。
 今、イエス様は私達のことも考え思って、一人一人を正しく平和に素敵にして下さいます。だから、今、病気でも、悩みがあっても、悪の中に沈んでいても大丈夫です。イエス様が声をかけ、慰めを与え、素晴らしい道に導いて下さいます。イエス様を信じて、イエス様に心も体も向けてまいりましょう。
 そしてさらに、イエス様のように自分の周りの人のことも考えてあげられる人になって行きましょう。まず身近な家族や友達のことを考えてください。その人達が喜んでくれること、楽しんでくれること、安心してくれることをして行きましょう。イエス様も一人一人がそうできるように力も愛も勇気も与えてくださいます。
最後にもう一度、聖書の御言葉を読んで終わりにします。
『おのおの、自分のことばかりではなく、他人のことも考えなさい。』ハレルヤ♪

2009年10月4日(日)
第2礼拝メッセージ 〜勇気を出して〜

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。『ヨハネによる福音書16章33節』

〜勇気を出して〜

以前、ある教会の先生がメッセージの中で「イエス様は十字架で死んで勝利しました。」と言っていました。死んだのに勝利するって言うのは、何か不思議な感じがしますが、イエス様は死んだだけではなく、よみがえって、死に勝利して下さいました。人間にはどうすることもできない、恐怖や不安や絶望である「死」に勝利して下さったイエス様が今日私達に『勇気を出しなさい』と語っています。
「勇気」を辞書で調べてみると「ものおじしない・強い意気」と書いてありました。私達はこの地上の生活で、悩みや問題により、ものおじしたり、強い意気が弱くなったりします。当然です。
しかし、全ての勝利者であるイエス様を信じて行く時、勇気を出して進む事ができます。まず、勇気を出して祈ることができます。どのような大きな悩みや困難な問題が立ちはだかっても、信仰による祈りはそれらを打ち破ることができます。また私達は勇気を出して仕えることができます。神様への奉仕に全力を尽くすことができます。さらに私達は勇気を出して伝えることができます。福音の前進のために大いに役立つことができます。
私達は全ての勝利者であるイエス様によって勇気を出して進む事ができます。そして、私達が勇気を出して進む時、そこに必ずイエス様による勝利を見ることができます。ハレルヤ♪

2009年9月27日(日)
教会学校礼拝メッセージ 〜思い煩い〜

神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。『ペテロの第一の手紙 5章7節』

〜思い煩い〜

「思い煩い」とは、考えると頭が重くなったり、心が痛くなったりする事です。私が中学生の時の思い煩いはテスト。中間テスト、実力テスト、期末テスト、学年末テスト、そしてミニテスト。全てのテストが思い煩いでした。まあ、これはちゃんと勉強すれば解決する問題ですが、私はあまりしていませんでした。
運動が苦手な人にとっては運動会が思い煩いになってしまったり、音痴な人は音楽の授業が思い煩いになってしまったり、学校自体が思い煩いになってしまう人もいます。また、人間関係が思い煩いになってしまう人もいます。人によって、思い煩いはそれぞれです。そして、その思い煩いが、心を重くし、体調を崩させ、良いものをつぶしてしまう事があります。
本日の聖書で、イエス様はその思い煩いを神様にゆだねなさい。と言っています。これは神様にお祈りして、自分の思い煩いの全てを打ち明けて解決するように願って求めて行くと言う事です。神様は、思い煩いを持って生きている私達一人一人を心配して下さいます。「心配」には、心をこめて大切に思って下さると言う意味があります。さらに、心配だけでなく、神様は一人一人の思い煩いを必ず何とかして下さいます。神様に祈ってまかせて行きましょう。ハレルヤ♪

2009年9月20日(日)
礼拝メッセージ 〜生ける神の子キリスト〜

イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。『マタイによる福音書16章13節〜20節』

〜生ける神の子キリスト〜

以前、教会のクリスマスコンサートで私が司会をした時、出演者に「あなたにとってイエス様とは?」と質問しました。いろいろな答えが返ってきました。「救い主」「ゆるして下さるお方」「神様」「友達」「優しい人」「癒し主」などなど。人によって、またその信仰の様々な経験によって違うと思いますが、本日の聖書ではイエス様がどのようなお方であるかが明確に記されています。
イエス様が弟子達に『人々は人の子をだれと言っているのか』と質問されました。それに対してペテロが『あなたこそ、生ける神の子キリストです』と答えました。
まず、イエス様は「生きておられるお方」です。十字架にかかり完全に一度死んでくださいましたが、その後、よみがえって死を乗り越えて死に完全に勝利し、今、生きておられます。だから、聞く事も語る事も動く事もできるお方です。そのイエス様に私達ももっと祈り、聞いていただきましょう。さらに語って下さるイエス様の言葉をもっと素直に聞いて行きましょう。さらにさらに私達の為に動いて下さるイエス様に委ねて行きましょう。
次にイエス様は「神の御子」です。神様と同じ全知全能なるお方です。全てを知っていて、全ての能力をもっておられるお方です。私がいろいろな相談を受ける時、「誰も私のことを分かってくれる人がいない」と言う人が多くいます。人は誰かに分かってもらいたいと思う動物です。自分の痛み、苦しみ、悲しみ、弱さそして存在を分かってもらいたいと思って生きています。しかし、たとえ、親友でも親子でも夫婦でも100パーセント理解することはできません。しかし、たった一人だけ全てを分かって下さるお方がいます。全知全能の神の子イエス様です。私達の痛みも、苦しみも、悲しみも、弱さも、愚かさも、失敗も分かった上で、ゆるし、愛し、慰め、励まし、癒してくださいます。イエス様は神の御子です。
そして最後にイエス様は「キリスト(救い主)」です。私達人間ではどうすることもできない魂の救いを成就して下さるお方。また、私達の傷ついた心、痛んだ心を救って回復を与えて下さるお方。さらに、私達の体・生活を病や呪いから救って、癒しと祝福を与えて下さるお方です。イエス様は『生ける神の子キリスト』です。このことを心から信じ、そして毎日実際に口で告白してまいりましょう。そして、このイエス様の恵みを味わってまいりましょう。
実はこの告白をして行く時、もう一つ素晴らしいものを私達は手にする事ができます。この告白をしたペテロは、イエス様から「天国のカギ」を受け取りました。このカギは天国の扉を開き、神様の恵みの扉を開くカギです。このカギを持つ者は福音を伝え、神様の恵みを引き出すことができるのです。
私達は日々の生活の中でイエス様に向かい『あなたこそ生ける神の子キリストです』と告白してイエス様の恵みをさらに味わい、また、天国の扉を開き、神様の恵みの扉を開く働きにも携わって行きましょう。ハレルヤ♪

2009年9月13日(日)
礼拝メッセージ 〜主の山に登る〜

多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。『イザヤ書 2章3節』

本日の聖書は賛美にもなっている有名な御言葉です。‘さあ〜♪みんなで♪主の山に登ろう〜♪ヤコブの神の家〜♪’。この「主の山に登る」と言うのは、礼拝をささげに神様のもとに行こうと言う意味であります。ゼカリヤ書に『地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝む為に、エルサレムに上らない者には雨が降らない。』と記されていますが、現代において、多くの人々が礼拝をささげる為に、神様の山である教会に来ていません。よって、神様の恵みの雨を味わっていません。逆に、礼拝をささげる為に教会に集う人々には、その人がどのような状態にあろうが、神様の恵みの雨が降ってきます。
そして、さらに恵みだけではなく、神様は教会に集う人々に、人の生きる道を教えて下さいます。聖書を見て行くと、神様にその道を教えてもらった人が数多く出てきます。中でも一番多く教えられたのがモーセです。旧約聖書の出エジプト記に『神はモーセに言われた』という言葉が数多く出てきます。そして、モーセ自身も神様の教えを受けなければ、前にも後ろにも行くことができない事を知っていました。だから、モーセはその歩みの全てにおいて、神様に聞き従い、神様の恵みと守りと導きを豊かに得ました。
サムエルも神様の教えに耳を傾けた一人です。サムエルは幼い時から『しもべは聞きます。主よお語り下さい。』との姿勢をもち、イスラエルの民を導く働きをしました。ヤコブもダビデもギデオンも、日々神様が語られる教えを聞き、それを信じ、従って行きました。そこに神様による御業が現れ、恵まれ、助けられ、守られ、良き導きを受けました。
今、神様は私達にも生きる道を教えようと語っています。そして、私達が元気な時、信仰的な時だけでなく、失敗した時も不信仰に陥った時も不従順な時も、神様は変わることなく語り続け、教え続けて下さいます。
神様は直接聖書を通して語り、またある時は試練を通して語り、またある時は病を通して語り、またある時は失敗を通して語り、またある時は成功をとおして語り、またある時は恵みや祝福を通して語ります。私達は日々神様の教えを聞いて行きましよう。そして、本日の御言葉の最後にあるように、神様が教えて下さる信仰の道、愛の道む、奉仕の道、平和の道、伝道の道、天国へ続く幸いな道を歩んで行きましょう。ハレルヤ♪

2009年9月6日(日)
礼拝メッセージ 〜神様の選びの器〜

アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。『使徒行伝 9章 13節〜15節』

〜神様の選びの器〜

本日の聖書箇所は、サウロ(後のパウロ)がよみがえったイエス様と出会い、その光と衝撃により、目が見えなくなり食べることも飲むこともできなくなって、神様に遣わされたアナニヤに祈られ、神様の選びの器として人生の再スタートをきるところです。
当時のサウロは、クリスチャン達を捕まえて牢獄へ入れる働きを熱心にしていました。当然、クリスチャンから見れば恐ろしい存在であり、天敵のような者でした。しかし、そのサウロを神様は選ばれました。もともと神様のお考えと私達人間の考えとは大きな差があります。だから、聖書を見て行く時、神様の選びに疑問を持ってしまうところがいくつもあります。例えば、イスラエルの最初の王のサウルもその一人です。何だか背が高いだけで選ばれたみたいな感じで、最終的には王としての働きをせず、妬みによって次の王になったダビデを苦しめ追い詰めるようなことをして、‘何でサウル?’みたいな感覚を持ってしまいます。しかし、このサウル王の存在がダビデにとって訓練となり、人ではなく神様に頼ることの大切さを学ぶ機会となったのです。
本日の聖書の出てくるサウロ(後のパウロ)の選びに対して、遣わされたアナニヤも疑問を感じていましたが、神様の選びに間違いはありませんでした。サウロは神様によりパウロという名前が与えられ、神様の働きの為に豊かに用いられ、さらに多くの手紙を記し、それが今私達が目にしている聖書となって、多くのクリスチャンを励まし教え導いています。
神様の選びは聖書の中に出てくる人だけではなく、皆さん一人一人にあるのです。今、神様は一人一人を神様の選びの器として福音の前進の為に用いようとしておられます。皆さんの中に家庭でたった一人のクリスチャンの人はいますか?会社で学校でたった一人のクリスチャンの人はいますか?地域でたった一人のクリスチャンの人はいますか?ではなぜ神様は先にあなたを選んだのかわかりますか?それはその場において神様の選びの器としてあなたを用いる為です。
先週の早天祈祷会に勝俣さんが来ました。その時、自分の家族や友人の家族や会社の人の名前をあげて祈っていました。私は勝俣さん神様の選びの器として特に祈りの器として用いられている姿を見ることができました。神様は今一人一人を祈り器、賛美の器、奉仕の器、愛の器、平和の器そして宣教の器として選び用いようとしています。私達はとかく「自分のような者が…」と考えてしまいますが(特に私は)、神様が選んで下さっているのだから責任は神様にあります。だから、安心して神様の選びの器として祈り、賛美し、奉仕をして、また、愛と平和の心を持って信仰の道を前進して行きましょう。ハレルヤ♪

2009年8月30日(日)
礼拝メッセージ 〜隠された奥義としての神の知恵〜

しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。『コリント人への第一の手紙2章9節〜10節』

〜隠された奥義としての神の知恵〜

本日の聖書の言葉は、「隠された奥義としての神様の知恵」です。そして、それは世の始まらない先からあらかじめ定められたものであり、今まで誰も見たことも聞いたことも心に思い浮かびもしなかったもので、神様がご自分を愛する者達の為に備えられたものです。これはまさにイエス・キリストによる福音であり、神様の大いなる恵みです。この大いなる恵みは何にも代えがたい素晴らしいものであり、私達の人生を幸いに導くものです。
この事をクリスチャンである私達がしっかりと自覚し、大いなる恵みに日々感謝して生きて行くべきです。私達がこの恵みに感動も感謝もしていなければ、人々に伝えることはできませんし、当然人々に伝わりません。
だから、私達一人一人がもっと神様の恵み、イエス様の福音、聖霊様の助けと導きを体験して行くべきなのです。そして、私達は信仰生活において、それぞれがまだ目で見ていない、耳で聞いていない、心に思い浮かびもしていない素晴らしい恵みがあります。
聖書を見て行くと、神様はその当時の人々が目に見たことのない耳に聞いたことのない心に思い浮かびもしなかった事を行ってくださいました。ノアの時代に起こった洪水による神の裁きと箱舟による守り(救い)も、誰も見たことも聞いたことも思い浮かびもしなかった裁きと救いの業でした。実は、この地上にもいつの日にか、人にはどうすることも出来ない神様の裁きが起こります。しかし同時に信じる者に与えられる神様の完全な守り(イエス・キリストによる救い)があります。
マルタとマリアの兄弟のラザロが死んでしまった時も、誰も見たことも聞いたことも心に思い浮かびもしなかった事をイエス様は行って下さいました。イエス様は墓に向かって『らザロよ出てきなさい』と宣言されました。墓とは死を表し、希望のない状態を表します。私達の人生においても希望のない状態に落ちてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、イエス様はそこにも声をかけて、見たことも聞いたことも心に思い浮かびもしなかった事を行って下さいます。
また、モーセとイスラエルの民が荒野を旅していて紅海を前にした時も、神様は見たことも聞いたことも心に思い浮かびもしなかった事を行って下さいました。その時彼らは後ろにはエジプト軍(死と苦しみと痛みを与えるもの)で、前は紅海(行く手を防ぐ絶望)でした。神様はその絶望の中に新しい乾いた安全な道を開いてくださいました。今、私達の人生にまだ見たことも聞いたことも心に思い浮かびもしなかった道を開いて下さるのは神様です。
だから、私達は今、この大いなる恵みをもって私達の人生に臨んで下さる神様にもっと期待してもっと感謝してもっと信仰をもって神様に近づいて行きましょう。神様は神様を愛する一人一人に目で見たことも聞いたこと心に思い浮かばなかった素晴らしいことを備えて下さいます。ハレルヤ♪

2009年8月23日(日)
礼拝メッセージ 〜神様の一声〜

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。『創世記1章1節〜4節』

〜神様の一声〜

本日の聖書箇所を現代訳の聖書や中国語の聖書で見ると「混沌」と言う言葉が使われています。混沌とは入り混じっていて区別がつかないことと言う意味の言葉ですが、まさに今の日本の現状を現しています。
そして、日本のキリスト教会そしてクリスチャン一人一人の信仰生活も混沌としているのではないでしょうか。救いの確信がはっきりしていないとか、信仰に生きているのか肉の欲に生きているのか混沌としているとか、神様の恵みで物事を進めるのか自分の力で進めるのかはっきりしないとか、とにかく混沌が信仰生活の中に入り込んできています。まさにサタンの策略にはまっているかのようです。私も含めて。
天地創造の時も最初は混沌としていた状態にありました。当然、人も動物も植物も生きる事もできないし、神様の恵みも現れていませんでした。同じように私達の信仰生活においても混沌としていては神様の恵みが現れてきません。本来、私達の信じる神様はしるしと不思議と奇跡を行う神様です。それを見えなくしているのが混沌です。
では、今この混沌を取り除けるにはどうすればよいのでしょうか。聖書を見て行きましょう。天地創造の時、混沌の中にも神様の霊がそこを覆っていました。同じように私達の信仰生活にも神様の霊(聖霊様)はもうすでに私達のうちに送られているのです。イエス様の十字架、復活、召天の後、ペンテコステの日に聖霊様がくだり、今も聖霊様の働きは私達一人一人の生活に臨んでおられます。
だから、今、天地創造の時と同じように神様の一声が必要なのです。神様が『光あれ』と声を発せられ、混沌は消え去り光が現れ、光と闇が区別されました。私達の信仰生活においても神様の一声を受け止める時、混沌は取り除けられます。憎しみや妬みの心で生活している人に、神様は『互いに愛し合いなさい』と一声かけてくださいます。肉の欲を満たそうとしている者に、神様は『まず神の国と神の義とを求めなさい』と一声かけてくださいます。不安や恐れの中にある者に、神様は『恐れるな、わたしがあなたの神である』と一声かけてくださいます。世を友とする者に、神様は『心を尽くし精神を尽くし思いを尽くし力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ』と一声かけてくださいます。また、自分に自信のない者に、神様は『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と一声かけてくださいます。
もうすでに聖霊様が働かれている今、これらの神様の一声をしっかりと受け止めて、その言葉を信じ従うならば、そこにある混沌は取り除けられ、闇は光に、無秩序は秩序に、病は健康に、戦いは平和に、呪いは祝福に、死は命に変ります。
今、一人一人に語られる神様の一声をしっかりと聞き、従って、人生に光を見出して行きましょう。

ハレルヤ♪

2009年8月2日(日)
礼拝メッセージ 〜メラ〜

さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。『出エジプト記 / 15章 22節〜26節』

〜メラ〜

本日の聖書は、エジプトから解放されたイスラエルの民が荒野を旅していて水が無くなってしまった時の神様の御業が記されています。イスラエルの民は男だけで60万人、女や子どもを合わせると200万人、さらに多くの家畜が共に旅をしていました。指導者モーセにとって水の確保も大切な仕事の一つでした。
イスラエルの民は紅海を出発して3日間その水が尽きてしまい苦しい状態にありました。さらに、やっと着いたメラという場所の水は苦くて飲めませんでした。本来、水は人を渇きから解放し、潤し満たし、命をつなぐ役割を果たすものです。本日のメッセージの題にもなっている「メラ」というのは苦いとか苦しいという意味で、メラの水は、水としての役割を果たしていませんでした。
イスラエルの民はモーセに向かって不平を言いました。そこで、モーセは神様に叫びました。神様はモーセに一本の木を示されそれを水に投げ入れると、水は甘くなり、水の役割を果たせるようになり、イスラエルの200万の人々の命をつなぐことができました。
実は私達人間も本来神様によって創造され、素晴らしい役割を果たすことができる存在でした。しかし、アダムとエバの時から罪が入り込んできて、その人生においてメラ(苦いもの)を出して生きて行くようになってしまいました。そして、人を苦しめたり悲しめたりまた自分自身を傷つけたりする苦い人生を歩んでしまいます。
そのような人間に対して、神様は素晴らしいは役割を果たせるように、一本の木を投げ入れて下さいました。それがイエス・キリスト様の十字架です。この十字架によって私達の内にある苦いものである罪は取り除けられ神の子とされ本来人間がすべき素晴らしい役割を果たすことができるようになりました。ちなみに神の子としての役割の第一は、神様をほめたたえる。第二は、神様を愛する。第三は、隣人を愛する。この素晴らしい役割を果たすことによって、その人自身も神様の恵みに満たされ、また周りの人にも神様の恵みを広げることができます。
私達の人生にもうすでにイエス様の十字架は投げ入れられています。この恵みを信じ受けとめて神の子としての役割を果たして幸いな人生を歩んで行きましょう。ハレルヤ♪

2009年7月26日(日)
礼拝メッセージ 〜主が建て、主が守られる〜

主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。 『詩篇127篇1節』

〜主が建て、主が守られる〜

本日の聖書の御言葉は、これから家を建てようとしている人へのメッセージではなく、教会に対してまた私達一人一人の信仰生活に対しての大切なメッセージです。
教会も一人一人の信仰生活も、人の手の業によって建てられ始められたのならば、それは空しいもので終わってしまいます。しかし、どちらも神様によって建てられ始められたものであることを信じ認めるならば、決して空しく終わる事はありません。
この教会はもちろん今ある全ての教会は、神様によって建てられ始められたものです。私達の教会はじめは、ある一人の姉妹が『余念なく主に仕えしめんためなり』との聖書の御言葉を信じて、ある一人の兄弟と結婚しました。そして、近所の子ども達に聖書のお話を聞かせるようになり、それが教会学校になり今の教会になりました。ある先生が「自然発生的にできた教会ですね」と言っていましたが、教会はカビじゃないのだから自然発生的にはできません。神様が働かれ人が選ばれ用いられて教会は建てられるのです。
実は私達一人一人の信仰生活も神様の働きと選びがあってこそ始められたのです。もちろん、教会に来た理由やきっかけはそれぞれ違うでしょう。友達に誘われて来た人、親に連れて来られた人、子どもに連れて来られた人、家が教会だった人(私です)、悩みがあって来た人、書道教室からの人、いろいろといると思いますが、その背後で神様が働かれて今みなさん一人一人はここにいるのです。神様は聖書を通して私達にこう語っています。『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ。そしてあなたがたを立てた。』と。私達の教会の歩みもまた一人一人の信仰の歩みも神様によって始められたことを覚えて下さい。
そして、神様はご自分で始められたことに対して責任をもって臨んで下さることを覚えて下さい。
そして、そのことが本日の御言葉の後半に記されています。『主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。』これは神様ご自身が教会も一人一人の信仰生活の歩みも守って下さるということです。
神様はまず私達一人一人の魂を守って下さいます。魂はイエス様の十字架の贖いによって神様とつながっているところだから、神様の守りがないはずかありません。だから、私達もイエス様の十字架と復活による救いを日々感謝して魂における神様とのつながりをより強くしてまいりましょう。
また神様は私達の心を守って下さいます。心は一番砕け易いところです。サタンはそれを突いてきます。しかし、神様はサタンに勝るお方です。だから、私達も神様の守りを確かなものとする為に「聖霊の剣」を常備して行きましょう。「聖霊の剣」とは聖書の言葉です。日々聖書を開いて、読んで、宣言して、行って、神様に心を守っていただきましょう。
さらに神様は私達の身体も生活も守って下さいます。聖書に『ご自身の御子でさえ惜しまないでわたしたち全ての者の為に死に渡された方が、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。』と記されています。神様はイエス様を与えるぐらい私達を大切に思って、私達の必要を満たしてくださり、その生活を守って下さいます。
私達の教会も私達一人一人の信仰生活の歩みも神様が建て、神様が守って下さいます。だから私達も安心して神様の御手の中に信じて行きましよう。ハレルヤ♪

2009年7月12日(日)
礼拝メッセージ 〜3つの条件〜

愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。『ヨハネの第三の手紙 2節』

〜3つの条件〜

先日、幸せな人生を歩む為の3つの条件というのを耳にしました。第一は物をくれる友を作る。第2は知恵ある人を友とする。第3は良い医者にめぐりあう事です。私はこれを聞いて「自分はこの3つの条件を満たしている。神様によって満たしている。」と思いました。
第一のものをくれる友はまさに神様です。目に見えるものも見えないものも下さいます。以前、「神様からのプレゼント」という歌を作りました。歌詞は
  青い空 白い雲 神様からのプレゼント
  イエス様の 御救いは 神様からのプレゼント
  愛する心 ゆるす心 神様からのプレゼント
神様は私達が人生を楽しむ為の様々なものをくださいます。神様によって幸せになる条件の1つ目はクリアーです。
第2の知恵ある人とは神様です。神様は、生きい行く全ての知恵を私達に教えて下さいます。今、世の中で一番必要な知恵は人間関係をうまくやっていく知恵だそうです。そして、その知恵も神様は聖書を通して語っています。ちなみに人間関係をうまくやっていく最高の知恵は「愛」です。その愛についてコリント人への第一の手紙13章に詳しく記されています。聖書を通して神様の知恵をいただいてください。
第3は良い医者にめぐりあう事ですが、神様が癒し主です。聖書において神様ご自身が『わたしは主、あなたを癒す者である。』と宣言しておられます。神様はまず、私達の魂を癒してくださいます。本日の御言葉『あなたの魂が恵まれている・・・』と書いてあるように、悪魔の支配の中に地獄に向かっていた魂を癒し、神様との交流の中に天国に向かって生きる者として下さいました。
さらに心を癒してくださいます。現代、心が病んでいる人が多くいます。また、自分の心が病んでいる事に気がつかずに、人の心を傷つけてしまう人もいます。神様は日々その心を癒し、良いもので満たし、聖書の箴言に書いてあるように、命の泉が流れるような心にして下さいます。
そして、神様は私達の体と生活を癒してくださいます。体の痛い所、弱い所がある人は、そこに手を置いて、『神様は癒し主』と信じて祈り求めて下さい。神様の力は私達の弱い所に完全に現れて下さいます。また、私達の生活の中にも臨んで下さり、悪や呪いを取り除け、祝福を与えて下さいます。
本日の聖書はヨハネの手紙ですが、神様のゆるしの中でこれが聖書に載っているのですから、この祈りは神様ご自身が私達に対して願っている祈りであります。私達も神様が願っているように、魂も心も生活も体も恵まれて、健やかな毎日を送って行きましょう。ハレルヤ♪

2009年7月5日(日)
礼拝メッセージ 〜近づく〜

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 『ヤコブの手紙4章8節』

〜近づく〜

人は何かに近づくことによって、そのものの影響を受けたり、時には一体となったりします。書道教室で上手な子と一緒にお稽古していると影響を受けてその子も上手になります。逆にさぼり癖のある子と一緒に来ている子は、一緒にさぼるようになります。恋愛も一緒にいる同士が花咲く場合が多いそうです。
本日の聖書は『神に近づきなさい』です。私達が神様に近づき、神様の影響を受け、神様と一体になるようにとのメッセージです。しかし、神様に近づくよりもお金に近づく人、友達に近づく人、仕事に近づく人、遊びに近づく人が多いようです。もちろん、それらに近づいてはいけないわけではありませんが、お金に近づいて、お金だけを求め、お金だけを信じ、お金によって死んでしまう人もいます。また友達に近づき、悪い影響を受けて共に悪に沈んでしまう人もいます。また仕事に近づき、疲れて前に進めなくなる人もいます。さらに遊びに近づき、自分の為すべき事を忘れて迷惑をかけてしまう人もいます。
だから、私達は何よりもまず神様に近づくべきです。実は神様の所には、私達が必要なお金も友達も仕事も遊び(楽しみ)もあるのです。そして、それらをもって神様は私達に近づいて下さいます。
私達は祈りと聖言葉と賛美と奉仕をもって神様に近づいて行きましょう。そして、神様に近づいて、神様の素晴らしい影響を受けて行きましょう。まず愛とゆるしの影響を受けて行きましょう。これによって生活の中に平和と笑いが広がってきます。また、神様の義と真実の影響をうけて行きましょう。今、世の中では悪がはびこり、人々の悪に対する基準が低下しています。だからこそ、悪やウソから遠ざかり、神様の義と真実の影響を受けて行きましょう。これによって私達は神様から信頼されるようになり、神様の恵みの良き管理人として大きな恵みにあずかるようになります。さらに、神様に近づき、信仰の影響をうけて、どんな時でも信仰によって生きられるようにして行きましょう。信仰によって生きるところに、神様の勝利を見ることができます。
今、私達はイエス様の十字架と復活の贖いによって、神様に近づくことができます。ますます神様に近づいて、神様の素晴らしい影響を受け、神様の恵みに生きて行きましょう。ハレルヤ♪

2009年6月28日(日)
教会学校メッセージ 〜生まれつき〜

イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 『ヨハネによる福音書9章1節〜3節』

〜生まれつき〜

本日は生まれつき目の不自由がイエス様によって癒されたお話です。生まれつきと聞くと、もう変わらない!あきらめるしかない!と思いがちです。私もよく書道教室の子ども達に「先生は生まれつき太っているの?」と聞かれます。もちろんそんなことはありません。だから、私は今後スマートになるという希望を持っています。
生まれつき目の不自由な人について、弟子達がイエス様に質問をしました。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。」
人間は不幸な事や悪い事がおきたり、失敗をしてしまうと誰かのせいにしたがります。書道教室でも自分が上手く書けないと筆のせい、紙のせい、手本のせい、隣の人のせいにする人がいます。教会で卓球をしている時、卓球の上手な人は失敗するとラケットを見て、ラケットのせいにします。
イエス様の弟子達もこの人の不幸を誰かのせいだと思っていました。しかし、イエス様はこの質問に『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』と答えました。要はこの人に神様の素晴らしい事が起こる為に、今の不幸があるというのです。
私達の人生にも、不幸な事や悪い事、様々な失敗があります。しかし、それらは神様による素晴らしい事が行われる前触れに過ぎないのです。だから、どのような中に置かれても、イエス様を救い主と信じて、神様の為される素晴らしい事を期待して進んで行きましょう。ハレルヤ♪

2009年6月14日(日)
第2礼拝メッセージ 〜主よ、主よ、〜

わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしのいうことを行わないのか。
わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。『ルカによる福音書6章46節〜49節』


〜主よ、主よ、〜

私達は信仰生活において、「主よ、主よ」と声をあげます。祈りの中に「主よ」、賛美の中に「主よ」と実際に声をあげます。また、苦しい時、悲しい時、困った時などにも心の中で「主よ」と叫びます。本日の聖書では、「主よ、主よ」と呼ぶことがいけないと言っているのではありません。だから、もっと神様に向かって声をあげるべきです。
そして、声をあげると同時に、神様からの声を聞き、その言葉を実際に行う事が大切です。それを本日の聖書が教えています。
神様の言葉を行う人は、岩の上に土台を据え、家を建てる人のようであると教えています。これは、イエス様という土台に信仰の家を建てて進む人のことで、そこには神様の守りと助けがあり、世の様々な出来事にしっかりと歩む事ができます。
逆に神様の言葉を行わない人は、土台なして家を絶える人で、神様の守りや助けや恵から外れて、世の中の激流に流されて行ってしまいます。
私達は、ますます、「主よ、主よ」と声をあげながら、聖書の御言葉を実際に行って、確かな歩みをして行きましょう。ハレルヤ♪

2009年6月7日(日)
礼拝メッセージ 〜主はわたしの助け主〜

だから、わたしたちは、はばからずに言おう、/「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。 『ヘブル人への手紙13章6節』

〜主はわたしの助け主〜


私達はイエス様を救い主と信じて、教会において礼拝をささげ、日々祈り、聖書を読み、神様との交わりの中に恵みをいただき生きています。また、信仰の仲間と話したり、食べたり、遊んだり、いろいろな交わりを楽しんでいます。感謝な事です。しかし、私達はそれだけでなく、もっと素晴らしい体験をする事ができます。それが「主はわたしの助け主」という体験です。
この聖書に出でくる人々の多くは、様々な苦しい道を通り、厳しい所に置かれ、自分の弱さを知り、残念や絶望の中に陥りました。しかし、彼らはそれで終わりではありませんでした。その後、主を仰ぎ見て「主はわたしの助け主」という体験をいました。
そして、その体験を数多くしているのがペテロです。ペテロの信仰生活は現代の信仰者のいい手本になります。なぜか?それはペテロには失敗が多かったからです。イエス様を見つめて信仰によって水の上を歩いたかと思えば、風と波で恐ろしくなり沈んでしまったり、イエス様に対して『あなたこそ生ける神の子キリストです』という素晴らしい告白をした後、調子にのってイエス様に『サタンよ、引き下がれ』と怒られたり、イエス様が裁判を受けている時、イエス様のことを「知らない」と否んでしまったり、また、ペンテコステの後も人を恐れて、パウロに叱られたり、とにかく失敗が多い。しかし、ペテロはその都度悔い改めて主を仰ぎました。そして、「主はわたしの助け主」の体験をして、神様に益々近づき、同時に福音の前進の為に素晴らしい働きをしました。
実は、私達も信仰生活の中で失敗することがあるのではないでしょうか。礼拝で恵まれて強められたのに、次の日には気持も信仰も沈んでしまったり、また、素晴らしい奉仕をした後に、調子にのって神様の御心から外れてしまったり、さらに、イエス様とは関係ない生活に陥ってしまったりいろいろあります。だからこそ、ペテロのように、悔い改めて主を仰いで主はわたしの助け主」の体験をして行きましょう。主の助けは、私達を慰め励まし、真の平和と幸せに至らせて下さいます。
実は、本日の聖書は信仰者である私達が告白すべき言葉ですが、その前に神様の素晴らしい愛の御言葉が私達に向けて述べられています。『主は「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた』。神様からの言葉をしっかりと受け止めて、私達もペテロのように失敗しても、毎日『主はわたしの助け主である』と宣言して、その体験をし、主に近づき、福音の前進の為に生かされて行きましょう。ハレルヤ♪

2009年6月3日(水)
水曜集会 詩篇145篇「神の世界統治をほめたたえる歌」

詩篇145篇
この詩篇は「神の世界統治をほめたたえる歌」という題がついています。
ダビデはその人生において、神様が自分を統治してくださるお方であると認め信じ委ねて従って行きました。だから、本日の詩篇のような幸いを得、また、その幸いを歌う事ができたのです。
まず、ダビデは統治者である神様を毎日しかも永遠にほめたたえました。
そして、3節にあるように神様の恵みを自分の経験や信仰で制限することがないように『その大いなることは測り知ることはできません』と宣言しました。また、8節では神様がいかなるお方であるかを明確に宣言しております。『主は恵み深く、憐れみに満ち、怒ること遅く、慈しみ豊です』。これが私達の信じるゆるしと愛の神様です。
さらに9節では『主はすべてのものに恵みあり、そのあわれみはすべてのみわざのうえにあります』。私達一人一人もこの『すべて』の中に入っていて、恵と憐れみを受けることができるのです。14節『主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます』。ここで感謝な事は、信仰者であっても倒れたり、かがんだりする事があるという事です。そして、たとえ倒れてもかかんでも神様はささえ立たせて下さるということです。18節『すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に、主は近いのです』。私達も絶えず神様を呼んで、神様に近く生きてまいりましょう。
今、私達も神様を自分の人生の統治者として認め信じ委ねて従って、この詩篇にある幸いを獲得して行きましょう。ハレルヤ♪
皆様の上に神様の祝福が豊かに注がれるよう祈ります。

2009年5月31日(日)
ペンテコステ第二礼拝メッセージ 〜力〜

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。『使徒行伝 1章8節』

〜力〜


キリスト教会には、3つの大きなイベントがあります。イエス様がお生まれになったクリスマスとイエス様が全人類の罪の贖いの為に十字架にかかり3日目によみがえられたイースターとよみがえられたイエス様が天に帰られ、その後に聖霊様が降臨してくださったペンテコステです。そして、本日は聖霊様が降臨してくださった事を記念するペンテコステ礼拝です。
このペンテコステの恵みは、当時の弟子達だけに注がれたのではなく、今も、信じる一人一人に注がれる素晴らしい恵みです。そして、この聖霊様が注がれた人は「力」を受けると本日の聖書に記されています。ではどのような力でしようか。
まず、信仰の力です。神様との関わりの中に、神様の恵みに生き、神様に期待し、神様に希望を置いて生きる力が与えられます。この力によってどのようなマイナスがあってもプラスに変わる事を信じられるようになります。
次に愛の力です。神様に愛されている事を深く知り、神様を愛する幸いな人生を歩む事ができます。さらに自分を愛するようになります。自分を大切にして、自分に本当に必要なものを吸収し、不必要なものを取り除けて、健全に生きられるようになります。さらにさらに隣人を愛するようになります。隣人の存在を大切にして、その思いや心を慰め励まし、その人に神様の最善がなされるように祈れるようになります。当然、その関係に平和が広がってきます。
本日の御言葉の「力」は、へブル語で「デュナミス」と言い、英語では「ダイナマイト」です。私達は神様を信じていく時、聖霊様が注がれ、ダイナマイトのような爆発的な大きな力を受けることができます。この信仰の力、愛の力を日々生かし、福音の前進の為にキリストの証人として用いられて行きましょう。ハレルヤ♪

2009年5月24日(日)
ごども礼拝メッセージ 〜嬉しい「まさか」〜

イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。 『マルコによる福音書5章34節』

〜嬉しい「まさか」〜

人生には3つの坂があります。「上り坂、下り坂、そして、まさか」。誰にでも思いもしないような「まさか」が起こります。
本日の聖書に出てくる女の人は、まさか自分が病気になるなんて思っていなかったのではないでしょうか。そして、まさか12年間もその病気で苦しまなければならないとは思っていなかったでしょう。この女の人は治る見込みのない病気によって、苦しい悲しい「まさか」の中を生き続けていました。
しかし、ある時、1つの嬉しい情報を耳にしました。どんな病気でも治すことができるイエス様という方の情報です。この女の人は、その情報を信じました。そしてまだ見たことのないイエス様を信じました。その後、この女の人は早速、病気の体を引きずりながら、イエス様を探しました。そして、とうとうイエス様がある村にいると言う情報を聞き行ってみました。しかし、イエス様は人気者で多くの人々が周りにいて近づくことができませんでした。この女の人は考えました。
待ち伏せをしよう!
イエス様が通られる道に先回りをして、イエス様に近づこう!
そして、イエス様の服の端っこに触れよう!
そうすれば、私の内にもイエス様の癒しの力が与えられて、私の病気は治る!
この女の人は、イエス様を待ちました。そして、イエス様が自分の近くを通られる瞬間に、手を伸ばし、イエス様の服の端っこに触りました。すると、体の中から力が溢れ出てきました。この女の人は癒されました。イエス様によって、嬉しい「まさか」が行われました。
その後、イエス様は立ち止まり、自分に信仰(信じる心)をもって触った者を探しました。そして、癒された女の人に向かって、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」と優しく語りました。
私達の人生にも苦しい悲しい「まさか」が起こるかも知れません。しかし、イエス様を信じて行く時、イエス様が嬉しい「まさか」を行ってくださり、幸せな素晴らしい人生に変えて下さいます。ハレルヤ♪

2009年5月10日(日)
こども礼拝メッセージ 〜神様に愛されている子供〜

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。『エペソ人への手紙5章1節〜2節』

私達人間は神様に愛されています。そして、その愛は様々な所に現れています。まず、自然界に神様の愛は現れています。輝く太陽に澄み切った青空、白い雲、さわやかな風、新緑、大きな海、それらは私達を楽しませたり、慰めたり、ホッとさせたりする為に、神様が備えて下さった大きな愛の現れです。だから、私達はこれらの自然を喜び感謝して、もっと楽しんで行きましよう。
また、私達人間の体の中にも、神様の愛は現れています。以前、魚の骨が喉に刺さって、痛くて苦しんでいたら、友人が「おにぎりを丸呑みすれば、骨は取れるよ」と教えてくれたので、やってみました。骨は取れずに痛さが増しました。すると別の友人が、「骨は自然に取れるよ。喉の筋肉が骨を外に出そうとする働きをするんだよ。」と教えてくれました。次の日の朝、骨が抜け、痛みがなくなっていました。神様は私達人間が苦しみや痛みから回復できるように、愛をもって創って下さいました。また、神様は私達が元気に生きられるように「癒し」も与えて下さいます。
そして、神様の私達人間に対する最高の愛の現われは、イエス様です。ではここでクイズです。イエス様がこの地上に来て下さった日は次のうちどれでしょう。
@バレンタインデー
Aホワイトデー
Bクリスマス
正解はBクリスマスです。
イエス様は私達の心も体も魂も清め、癒し、強め、元気にして下さいます。
そして、さらに神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛せるように、愛の心を与えて下さいます。ではここでまたまたクイズです。この愛の心を持っている人がよく口にする言葉は次のうちどれでしょう。
@ありがとう
Aこんぺいとう
Bオリゴ糖
正解は@ありがとうです。
ある本に「世界で一番幸せな人はありがとうの言える人」と書いてありました。イエス様を信じて愛の心で、神様にありがとう!家族や友達にありがとう!を言って、幸せな人になって下さい。

2009年5月3日(日)
第2礼拝メッセージ 〜見えるもの、見えないもの〜

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。『コリント人への第二の手紙 / 4章 18節』

〜見えるもの、見えないもの〜

以前、友人が「神様はなぜ災害や病気で人間を苦しめるんだよ?」と質問してきた。私は「おまえ、神様の存在を信じるようになったの?」と聞き返した。彼は「信じていないけど、おまえは牧師だろ。おまえのところの神様はどう思っているんだよ?」と言ってきた。私は「おまえ、神様信じたいの?」と言ったら、彼は「別に信じたくないけど、どうなんだよ?」と聞いてきた。
実は、誰もが持つ疑問を彼は私にぶつけてきました。聖書において『神は愛である』と言っていながら、人間をなぜ苦しめるような災害や病気をおこすのか?
その答えは、人間が自分の弱さを知り、真に頼るべき存在は誰なのかを知る為です。そして、本日の御言葉通り、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ為です。
本日の御言葉には『見えるものは一時的であり』と書いてあります。見えるものの代表は人間とお金です。この二つは一時的には何とかする力はあります。しかし、あくまでも一時的です。人間は自分も含めて年をとり、力が衰え、最後は土に帰る存在です。お金も時々にその価値が変わり、使えは無くなってしまうものです。
一方、目に見えない神様に目を注いで行く時、そこには永遠があります。これは神様への信仰をもって生きて行く道に終わりがなく天国まで続くということです。そして、この神様への信仰の歩みによって、弱さがあり一時的な存在である人間を神様が愛し大切に思って下さる事がわかり、自分自身も隣人もを大切にするようになります。
また、お金に関しても、見えない神様へのささげもの(献金)によって、神様が見える形で祝福を与え、その人生を豊かにして下さいます。
今、見えるものに心を動かされて不安な人生ではなく、見えない神様に目を注いで、天国に向かって確かな豊かな人生を送って行きましよう。ハレルヤ♪

2009年4月12日(日)
☆イースター(復活祭)特別礼拝☆ 〜キリストの弟子へ

イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。『ヨハネ福音書20章 21節〜23節』 
   〜キリストの弟子へ
  本日の御言葉は、よみがえられたイエス様が、弟子達に語ったメッセージであり、彼らが進むべき道を示したものです。そして、この御言葉は、現代のキリストの弟子である私達にも語られている大切なメッセージです。
 イエス様はまず『安かれ(平安があるように)』と語られました。これはユダの国の挨拶の言葉でありますが、不安の中にいた弟子達の心に神様による平安が注がれる事を願い、願うだけではなく神様の平安を与えました。そして、私達にもイエス様は毎日『平安があるように』と声をかけて、実際に神様の平安で私達の心と思いを守って下さいます
 次に、イエス様は『父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。』と語られました。神様がイエス様を私達につかわして下さったのは、私達が神様からの恵みを受ける為です。
 神様がつかわされたイエス様は、第一に私達に贖いの恵みを与えて下さいました。この恵みにより魂の救いを受け、神様との交わりに入らせていただきました。
 第二に癒しの恵みを与えて下さいました。聖書を見ますと、イエス様は多くの人を癒しています。イエス様は病人に直接触れ、イエス様を通して神様の癒しの業がなされました。今、私達はイエス様に触れることはできません。ではどのようにしてこの癒しの恵みにあずかればよいのでしょうか。それは、聖書の言葉です。聖書の御言葉を読み、その権威を信じて、御言葉に触れて行くならば、イエス様を通して神様の癒しが一人一人に行われます。
 第三の恵みは聖霊様です。聖霊様は私達の日々の歩みにおいての最も近くの助け主であり、正しく平和な方へ導き、神様の知恵を与えて下さるお方です。それらの恵みが与えられます。
 第四は祝福という恵みです。神様の祝福はただ単に満たされて潤されて願いが叶ってというのではありません。もちろんあらゆる面で豊かにして下さいますが、最終的に私達が感謝することができるようにして下さいます。これが神様の祝福です。
 そして第五は天国の恵みです。究極の安らぎです。そして、永遠の希望です。神様はイエス様をつかわして、私達にこれらの恵みを与えて下さり、この恵みによって幸せに生きられるようにして下さいました。
  今度はイエス様が私達をつかわして、世の多くの人々が神様の恵みに生きられるようにと語っております。私達はこれらの恵みに生き、味わい、伝え証ししてまいりましょう。そして、イエス様はその働きの為に聖霊を注ぎ、ゆるす権威とゆるさない権威を与えて下さいました。イエス様はこのゆるす権威をもって恵みを伝える働きをしました。私達もイエス様のように自分に対しても隣人に対してもゆるす権威をもって接し、イエス様につかわされて行きましょう。ハレルヤ♪

2009年4月5日(日)
第2礼拝メッセージ 〜イエス・キリストの名によって〜

ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、 彼は何かもらえのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。『使徒行伝3章 4節〜6節』

〜イエス・キリストの名によって〜

本日の聖書の使徒行伝は、イエス様が十字架にかかり死んで、3日目によみがえり、40日後に天に帰られた後、聖霊様が弟子達に注がれ、その弟子達がイエス様の力によって素晴らしい働きをした事が記されている書簡です。そして、本日はその素晴らしい働きを体験した生まれつき足の不自由な人の話です。彼は毎日誰かに会堂に運んでもらい、物乞いをして何とか生きていました。彼は先に希望がなく人頼みの人生を送っていました。
その日もいつものように物乞いをしていると、3時の祈りをささげに来たイエス様の弟子のペテロとヨハネに会いました。ペテロとヨハネはこの人に『わたしたちを見なさい。』と語り、さらに『イエス・キリストの名によって歩きなさい。』と宣言しました。この人はこの言葉を信じて立ち上がりました。信じて歩きました。そして彼はペテロとヨハネと一緒に喜びながら会堂に入り、共に祈りをささげました。
今、神様との関わりを持たずに希望もなく、人頼みの人生を歩みの人生を歩んでいる人が多くいます。そしてこれといって変化もなく毎日を送っています。
神様はそのような人に素晴らしい変化と幸いをもたらす為に聖書を通して語っています。『イエス・キリストの名によって歩きなさい。』これは、イエス様を救い主と信じて毎日を生きるようにとの教えです。イエス様を信じて行く時、神様の力が働き、思いをはるかに超えた素晴らしい変化を体験することができ、必ず幸いを得ることができます。
追伸→あと、信じてもまだ素晴らしい変化と幸いを得てない人は、こと人のように神様の言葉をそのまんま信じて、神様の言葉通りに従ってみて下さい。あなたにも必ず神様の働きがなされます。ハレルヤ♪

2009年3月29日(日)
礼拝メッセージ 〜信じる者〜

イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。『ヨハネによる福音書12章44節〜46節』

本日の聖書の最初に『イエスは大声で言われた』と記されています。イエス様が特に伝えたかったメッセージがここにあるのだと思います。そしてその内容は「信じる者」についてです。まずイエス様は『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。』と語られました。イエス様を信じる者はイエス様をつかわされた神様を信じるという事です。実は、クリスチャンの中にも三位一体の神について、また、イエス様と神様と聖霊様について、いまいち理解していない人もいます。神様とイエス様と聖霊様はそれぞれに人格(神格)を持ち、思いや考えが一つで、それぞれが違う働きをして、人間の幸せの為に事をなして下さるお方です。だから、イエス様を救い主と信じる事は、神様を創造主と信じることであり、また、聖霊様を導き手・教師・いと近き助け主と信じることになるのです。これらの事をしっかりと覚えて、神様を信じ、イエス様を信じ、聖霊様を信じて行く時、

それ
ぞれの働きが私達一人一人に臨み、その恵みを味わう事ができます。
次に46節にも「信じる者」に対しての素晴らしいメッセージが記されています。『わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。』イエス様が光としてこの世に来て下さいました。ヨハネ福音書の1の9にも『すべての人を照らすまことの光であって、世にきた。』と記されていますし、また8の12にも『「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。』とイエス様が光であられる事が記されています。そして本日の御言葉には、その目的が記されています。それは、私達信じる者が闇の内にとどまらないようになる為です。
世の中には様々な闇があります。悪や罪という闇、病という闇、人間関係から来る闇、経済的問題から来る闇などなど。以前、私の友人が「闇が7つで悩み」と言っていましたが、様々な闇が私達を悩ませ、思い煩わせます。しかし、その悩みの原因の闇を光であるイエス様がとりのけて下さいます。イエス様の十字架と復活により罪ゆるされ、義とされ、癒しを受け、祝福を受け、恵みの中を歩めるようにして下さいました。どのような闇もイエス様の光に勝つことはできません。
イエス様は私達信じる者が闇の内にとどまらないように光として来て下さったのですから、私達も信仰と意志をもつて、闇のうちからキリストの光の方へ移って行きましょう。そして、これからも光であるイエス様を信じ、聖霊様を信じ、神様を信じて、光の中を歩み、今、それぞれが置かれている所においてキリストの光を輝かせて行きましよう。ハレルヤ♪

2009年3月25日(水)
水曜集会 〜神様に呼ばわる〜

わたしは心をつくして呼ばわります。主よ、お答えください。わたしはあなたの定めを守ります。
『詩篇119篇145節』〜コフ


神様に向かって呼ばわっていますか?今、呼ばわらずに答えを求めるクリスチャンが多くなっています。まず、祈りをもって呼ばわりましょう。自分の願いを思いを祈りの中に神様に求めて下さい。神様は『求めよ。そうすれば与えられる。』と語っています。
次に賛美をもって呼ばわりましょう。神様への賛美の声を高らかに上げて下さい。心からの賛美を神様にささげて下さい。そこに神様の臨在は現れ、神様による癒しと満たしか与えられます。
そして最後に献金をもって呼ばわって下さい。多くの人々が経済的祝福を願っています。聖書のマラキ書に経済的な祝福の道を示しています。献金をささげることは経済の面においても神様を認めることであります。神様はそのような者に天の窓を開いて祝福して下さいます。
まずは神様に呼ばわって行きましよう。それから、神様の素晴らしい答えをいただいてまいりましょう。ハレルヤ♪

2009年3月22日(日)
礼拝メッセージ 〜イエス様が救い主〜

イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。 『ヨハネによる福音書 9章 37節〜38節』
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。『ヨハネによる福音書 9章 41節』

〜イエス様が救い主〜

本日のヨハネによる福音書9章を簡単に言うと「生まれつきの盲人がイエス様によって見えるようにされ、それが安息日だったので、パリサイ人達がクレームをつけて、すったもんだした話」です。そして、この9章には素晴らしい神様からのメッセージがいくつも記されています。
「生まれつきの盲人」→イエス様の弟子達が生まれつきの盲人を見て、誰のせいでこの人が盲人であるかをイエス様に尋ねました。イエス様は「誰のせいでもなく、神様の素晴らしい事がこの人に起こる為です」と答えられました。私達にもマイナスな事や不幸と思われる事が起こります。しかし、それはこれから神様の素晴らしい事が現れる為である事を信じて神様に期待して行きましょう。
「シロアムの池へ」→イエス様は盲人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように命じられました。そしてその盲人は見えるようになりました。この「シロアム」の意味は「遣わされたもの」でありイエス様を表しています。要はイエス様の所に行く事によって、その全てにおいて道が開かれます。
「パリサイ人」→聖書に出でくるパリサイ人が全て悪いわけではありませんが、中にはイエス様の言動に反対し妨害する者達もいました。盲人の目が開かれて見えるようになった事に関して、理解できなかったパリサイ人達は、その喜ばしい出来事を喜ぶことができず、批判しその人をユダヤ人の宗教的社会的生活から締め出してしまいました。喜ぶ者と共に喜べない人間の姿がここにあります。
「締め出された人」→かつて盲人だったこの人は村八分状態になってしまいました。そこへイエス様が現れて下さり、その人に『あなたは救い主を信じますか』と声をかけました。実はその人はイエス様のお姿を見ていなかったため、どの人がイエス様か分かっていませんでした。その人は『主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが』と言いました。イエス様は『あなたはもうその人と会っている。今、あなたと話しているのがその人である。』と語られました。その人は『主よ、信じます』と信仰告白をしました。
実はイエス様は今も全ての人に対して『あなたは救い主を信じるか』と声をかけています。そして全ての人に魂の救いを与えようと考えております。
さらに、もうすでに信じて魂の救いにあずかっている人にも『あなたは救い主を信じるか』と声をかけ続けています。それは人々がこの世にあってサタンの様々な迫害や生活における労苦の中に身を置いているからです。そのような人々にイエス様による救い(癒し・問題の解決・満たし・慰め・励まし)を与えて下さいます。だから、私達はイエス様に対して『主よ、信じます』と宣言して、実際に主の素晴らしい救いにあずかって行きましょう。
「見えると言い張るところに罪がある」→かつて盲人だった人の救いを見ていた別のパリサイ人達がイエス様に『私達も盲人なのでしょうか』と質問しました。これは「私達は真理が見えてないのでしょうか」との意味です。それに対してイエス様は『今、あなたがたが「見える」と言い張るところにあなたがたの罪がある』と答えられました。これは、「自分は真理がみえている。自分は大丈夫だ。自分は分かっている。」と自分中心、自分の力でとの考えで進もうとする者は霊的な盲人であり、罪があり、的外れな歩みをしてしまうとのメッセージです。
私達はイエス様を信じていても、神様の御心や真理を全て悟れるわけではありません。だから、「自分は…。」と言う思いではなく、天国に行くまで、イエス様の素晴らしい救いを求めて、イエス様の救いをいただき、謙ってこの信仰の道を歩んで行きましょう。イエス様が救い主です。ハレルヤ♪

2009年3月8日(日)
礼拝メッセージ 〜神様のはからい〜

モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。『ルツ記2章2節〜3節』

〜神様のはからい〜

本日の聖書であるルツ記は、イスラエルのある一つの家族の物語です。夫エリメレクと妻ナオミと2人の息子がユダのベツレヘムに住んでいました。ある時、この一家は異国であるモアブの地に移住しました。そして、その地において夫エリメレクは死んでしまい、2人の息子もそれぞれモアブ女性と結婚しますが死んでしまいました。この妻であるナオミの名前には「楽しみ」という意味がありますが、彼女の人生は楽しみからどんどん遠ざかってしまうものでした。なぜ神の民であるのに楽しみが遠ざかり、苦しみが押し寄せてくるのでしょうか。ある先生が「その要因の一つとして彼ら一家がユダの地から離れて、異国であるモアブの地に行ったからである」と語っていました。神の民は神の国から離れるべきではなかったのです。これは現代のクリスチャンにも大切なメッセージを語っています。クリスチャンは教会から離れるべきではない。それがどのような教会でも、どのような牧師がいても、どのような信徒がいても離れるべきではない。今、離れている人は、どこの教会でもいいから、行くべきであり、そこで信仰生活を送るべきです。なぜなら、どこの教会にも神様がいて下さり、そこに神様の臨在があるからです。
聖書に戻りましょう。その後、夫と2人の息子を失ったナオミは、残された2人の嫁の将来を考えて実家に戻るように勧めました。一人は帰りましたが、もう一人のルツという嫁は義母ナオミから離れませんでした。そして、ナオミに『わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。』と宣言し、ナオミの信じる神を信じ、ナオミに従いました。その後、ナオミとルツはナオミの故郷であるベツレヘムに帰って来ました。ナオミは自分の人生の歩みを思い、その村の人々に『わたしをナオミ(楽しみ)とは呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んで下さい。』と言いました。私達も人生において、厳しい中を通らされた時などは、ナオミのように自分の名前を「苦しみ」「不幸」「不運」に変えたくなるような気持になる事があります。私も今年の冬はちょっとそんな気持ちになりました。息子が腸炎で入院し、退院の日に私が腸炎にかかり、私が回復してきたら、息子がインフルエンザにかかり、その後、私と息子と2人で花粉症に苦しんで、「神様、どうなっているのですか?」と叫びたくなるような思いになりました。
このように神様を信じていてもいろいろあります。しかし、大丈夫です。神様は無駄に苦しい道を通らせるお方ではありません。
ナオミもいろいろ苦しい中を通りましたが、神の国であるユダに帰って来ました。実はここが大切!私達もいろいろあっても帰ってくる所は、神様の所!そこから新しい一歩を始めればそれでいいのです。神様のもとへ帰って来た者には、神様の素晴らしい計らい(計画)があるのです。

ナオミと一緒にユダに来たルツは、ナオミの為に畑に行って落ち穂拾いをしました。
そして、本日の聖書には『彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。』と記されています。ルツが計らなくても、神様がルツに対して素晴らしい計らいをして下さり、ボアズの畑に導かれました。
神様は私達の人生においても、同じように、素晴らしい計らい(計画)をして下さいます。私達が「苦しみ」「不幸」「不運」を感じ、厳しい中を通る事があっても、ルツのように神様を信じ、忠実に従順に進むならば、私達が計らずとも、神様が計って(計画して)、道を開いて下さいます。
ルツはもともと異国の民でしたが、神様の計らいの中にボアズの妻となり、この2人からオベデが生まれ、オベデからエッサイが生まれ、エッサイからあのダビデが生まれ、このダビデがイスラエルの王となるのです。
私達一人一人にも神様の素晴らしい計らい(計画)があります。そしてその計画についてエレミヤ書に「神様の私達に対していだいている計画は、平安と将来と希望を与える計画」と記されています。そして、さらに神様の素晴らしい計らいによって、私達が祝福を受けるだけでなく、私達の関わる人々にもその恵が広がって行きます。これからも、ルツのように従順な心で、神様の計らいの中を前進してまいりましょう。ハレルヤ♪

2009年3月1日(日)
礼拝メッセージ 〜いつものように〜

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。『ダニエル書6章 10節』

〜いつものように〜 

本日の聖書に出てくるダニエルは、バビロン捕囚の時に異国の地に連れてこられ、厳しい環境の中で生活していました。しかし、その中においても、神様に礼拝をささげる事は忠実に行っていました。そして、神様もダニエルに恵みと知恵を与え、その異国の地において高い地位につき、その国の王に仕えました。ダニエルはその王に仕える時も神様の事を考えて行動しました。だから、神様もその全てに祝福をもって臨んで下さいました。
ある時、ダニエルの成功に対して妬みを感じ、ダニエルを陥れようとする策略が起こりました。それが本日の聖書に記されています。ダニエルを陥れる為に、王様だけに礼拝や祈りをささげ、違反者はライオンの穴に落とされるという法律を制定してしまいました。 ダニエルはそれを知ったうえで、いつものように神様に礼拝をささげ、感謝の祈りをしました。その結果、訴えられ、ライオンの穴に落とされてしまいました。しかし、神様の特別な守りによってダニエルは髪の毛一本も失うことがありませんでした。その後、ダニエルのが信じる神様が真の神である事を王様も認め、ダニエルを陥れようとした人達はライオンの穴に落とされて滅ぼされました。
私達も毎日の生活の中に、風向きが変わって、厳しい状況に置かれたり、苦しみや痛みを覚える事もあるでしょう。しかし、そのような時でも、いつものように神様に向かって行きましょう。いつものように祈り、いつものように聖書を読み、いつものように賛美をささげ、いつものように愛し合って行きましょう。そこに神様の守りと祝福があります。ハレルヤ♪

2009年2月25日(水)
水曜集会 進むべき道

詩篇119篇105節〜112節
本日の詩篇にあるように、神様の御言葉(聖書)は、私達が人生を歩む上で、進むべき道を照らし教えて下さる光です。ちなみに私達が進むべき道とは、神様をほめたたえる道・神様の恵みを受ける道・平和を広げる道・成長することができる道です。そして、神様は聖書を通してそれを繰り返し教えて下さいます。その御言葉を聞いて実行して行くことを本日の詩篇の記者は宣言しています。
しかし、この宣言の後に、自分の苦しい心情を神様に訴えています。実際、神様の御言葉を聞き、実行していても、全てが上手く行くというわけではありません。その歩みの中に、苦しむ時、悲しむ時、悩む時、危険にさらされる時があります。もちろん神様がむやみにそれをしているのではありません。必ずその一つ一つに意味があり、そのような中を通る事によって訓練され、磨かれて、成長することができます。
だから、私達は本日の詩篇の109節や110節にあるように『しかし私は…』という信仰の姿勢をもって行きましょう。厳しい現状の中に『しかし私は神様の御言葉を忘れません』。人々がどうであっても『しかし私は神様の御言葉から迷い出ません』という姿勢をもって行きましょう。そこに必ず、神様の御業が神様のよしとする時に行われ、私達は幸せになれます。ハレルヤ♪

2009年2月22日(日)
特別礼拝メッセージ 〜新しい歩み〜

すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。『ローマ人への手紙6章4節』

〜新しい歩み〜

本日の聖書によると、イエス様を救い主と信じる者はキリストと共に死んでしまった状態にあります。これは、罪(的外れ)の中に生きていた自分が死んでしまったことを表しています。一般常識では、死んでしまったら全てが終わりのような感覚ですが、神様にとっては死んでしまっても終わりではありません。逆に新しい歩みが始まります。イエス様の十字架と復活を信じる者は新しい命が与えられ、神様を喜ばせ、また自分も幸せになる新しい歩みをする事ができます。
まず、新しい命によって、神様をほめたたえる歩みをする事ができます。聖書に『神の宝の民』という言葉がありますが、神様を信じる者は神様にとって宝のような存在になります。当然、神様は宝である私達を大切にして下さいます。同時に、宝である私達も神様を喜ばすことができるのです。だから、私達は神様をほめたたえて神様を喜ばせて行きましょう。
次に、新しい命によって、信仰による歩みをする事が出来ます。信仰によって神様と共に歩むことができ、さらに神様の恵みを受けて生きることができます。さらにさらに信仰によって祈る時、神様の不思議な業がなされ、信仰によって聖書を読む時、希望があふれてきます。信仰による歩みは、日々の生活に元気と勇気と希望を与えます。
最後に、新しい命によって、愛し合う歩みをすることができます。まず神様に愛されていることを自覚することができます。そして、神様の愛を受けて、自分を愛し、隣人を愛する事ができます愛し合う所に平和と喜びと楽しさが広がり、笑顔でいる時間が多くなってきます。
イエス様を信じて、新しい命をいただき、神様をほめたたえ、信仰をもって生き、愛し合う新しい歩みをして幸いを実感して行きましょう。ハレルヤ♪

2009年2月15日(日)
礼拝メッセージ 〜求むべきもの〜

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。『マタイによる福音書6章31節〜34節』
〜求むべきもの〜
 以前、テレビで「現在の日本の混乱の原因は何か?」の質問に、多くの人が「麻生さんが総理大臣をやっているから」と答えていました。さらに「アメリカのリーマンブラザーズの破たんのせい」とか「日本の官僚が悪い」とかの意見もありました。あと、「NHKの大河ドラマの篤姫が終わっちゃったから」というおもしろい意見もありました。で、私は「人が為すべき当たり前のことをやっていないから」様々なところに混乱が広がっているのだと思います。そして、この混乱からの脱出の方法は、今、私達がなすべき『神の国と神の義を求める』ことです。神の国と神の義を求めて行くならば、そこに平和と秩序が回復してきます。なぜなら、私達の神様は無秩序の神ではなく平和の神だからです。
私達はまず神の国を求めてまいりましよう。実際に、神様の権威と神様の支配と神様の秩序と神様の平和が私達の生活に拡大することを求めて行きましょう。人はとかく自分の権威、自分の支配、自分が考える秩序、自分中心の平和を求めてしまいます。それでは自分の国が広がるだけで、神様との調和も人との平和も保つことはできません。神様の国を毎日求めてまいりましょう。
次に、神の義を求めてまいりましょう。神様の義が広がる事によって、私達は平穏と信頼を得ることができます。イザヤ書32章の17節に『義はとこしえの平穏と信頼をもたらす』と記されています。毎日神様の義を求めてまいりましょう。
そして、神の国と神の義を求めてゆくならば、『これらのものは添えて与えられる』との約束が本日の聖書に記されています。『これらのもの』とは、私達が生きて行くのに必要な健康、働く力、学ぶ力、楽しく仲良く生きる知恵がです。本日の聖書には『添えて』と記されています。だから、私達が生きて行くのに必要なこれらのものは、グリコのおまけみたいなものであり、逆に言うと、神の国と神の義はそれほどまでに私達にとって大切なものであり、混乱を静め、秩序と平和を与える素晴らしいものなのです。
私達は、まず、神の国と神の義を求めて受け取り、さらにグリコのおまけもいただいて、神様による平和と秩序の中を進んでましょう。ハレルヤ♪

2009年2月11日(水)
水曜集会 〜確信の詩篇〜

本日の詩篇46篇は、「確信の詩篇」という題が付いていて、最初から最後まで神様の素晴らしさと力強さが宣言されています。
1節『神は我らの避け所また力である、悩める時のいと近き助けである。』 2節『このゆえに、たとい地は変わり、山は海の真中に移るとも、我らは恐れない。』と記されています。人は近い助けとして、お金、家族、友人、医師そして自分を頼りにしています。それが悪いわけではありませんが、それらの助けは、地が変わり、山が海の真中に移ったら助けとしては働くことはできません。しかし、神様はそのような時も変わらずに、私達のいと近き助けとなって下さるお方です。そしてさらに、神様は、人が考える全ての助けの上におられ、それら全てを支配しておられるのです。だから、悩みの時には、まず神様に祈り助けを受けてまいりましょう。
4節『一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なる住まいを喜ばせる。』と記されています。昔は川のある所に人々が集まり、町ができ、文明や文化が発達しました。みなさん、四大河文明をご存知でしょうか。インダス文明、黄河文明、エジプト文明、メソポタミヤ文明です。それらの文明がおこった所にはそれぞれインダス川、黄河、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川がありました。大きな川の近くに素晴らしい文明が広がって行きました。川は神様の祝福の現れです。神様が今、私達の内にも恵みの川を、聖霊の川を流し、喜びに満たして下さいます。
私達はこの詩篇の記者のように、神様の素晴らしい事を信じ、宣言して、神様の恵みに生きて行きましょう。ハレルヤ♪

2009年2月8日(日)
礼拝メッセージ 〜祝福と呪い〜
たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。
『へブル人への手紙第6章7節〜8節』

聖書は自然界の様々な事を通して、私達が理解しやすいように真理を教えています。本日の聖書も自然界の当たり前の事を通して私達の歩むべき道を示し教えています。
御言葉を詳しく見て行きましょう。7節の「土地」は私達の心もしくは信仰を現しています。そして神様はその心に恵みの雨と聖霊の雨を降らして下さいます。恵みの雨は、私達を癒し、潤し、満たして下さいます。また聖霊の雨は、私達を清め、教え、導いて下さいます。これらの雨によって、私達は祝福にあずかる第一の備えをする事ができます。
次に神様は私達の心に御言葉の種を蒔いて下さいます。しかしせっかく蒔かれた種も発芽しなければ種のまんま。実は現代のクリスチャンの中には、この種を喜んで終わりにしてしまう人が多い。種は発芽してはじめその素晴らしさが分かります。神様の御言葉の種を発芽させるには「行い」が必要です。ヤコブの手紙に『み言葉を行う人になりなさい。自分をあざむいて聞くだけの者のなってはいくません。』と記されています。だから神様が一人一人に『礼拝しなさい』という種を蒔いてきたら、実際に礼拝するべきです。神様が『祈りなさい』という種を蒔いてきたら、実際に祈るべきです。神様が『愛し合いなさい』との種を蒔いてきたら、実際に愛し合って、愛の芽を出し、愛の茎を伸ばし、愛の枝を広げ、愛の花を咲かせ、愛の実を結ぶべきです。
神様が私達に蒔く御言葉の種は、神様と私達との関係をより太く強く素晴らしいものにして下さいます。さらに私達と周りの人達との関係もより平和に楽しいものにして下さいます。そして私達自身を豊かに幸せにします。だから、神様が蒔いて下さる御言葉の種を私達は実際に行って、本日の御言葉のように、神様の祝福にあずかってまいりましょう。
8節の御言葉は、私達が注意すべきことが記されています。ここに記されている「いばらやあざみ」とは、憎しみや妬みや怒りや不信仰です。私達の心の中でとげとげするものです。これらは神様からの御言葉の種を発芽させる事はできません。
以前、家庭菜園をしていた人が「雑草は手入れをしなくてもよく育つ」と話していました。実は私達の心にはいばらやあざみのような雑草が生えやすいのです。特に自我の強い人は生えやすいそうです。そしてそれらを放っておくと、本日の御言葉のように、無用になり、呪われ、焼かれてしまいます。
聖書の申命記にも本日の御言葉と同じような事が記されています。『見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と呪いとを置く。もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。』『もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず・・・・呪いを受けるであろう。』とはっきりと示されています。
今、どちらを選びますか?私は、祝福!
祝福を受ける為にも、私達はその心にいばらやあざみが生えないように、日々神様との関係を大切にして、また神様からの恵みの雨、聖霊の雨を受け、さらに御言葉の種をいただき、それを行い、実を結んで、神様の祝福にあずかってまいりましょう。ハレルヤ♪
2009年2月1日(日)
礼拝メッセージ 〜レッテルを張る〜

それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。『ルカによる福音書7章47節〜50節』

本日の聖書に登場する人は、パリサイ人と罪の女とイエス様。そしてもちろん主役はイエス様。しかし、イエス様はただの主役ではなく、脇役を生かして下さる主役です。だから私達の人生においてもイエス様を主役としてお迎えするならば、そのイエス様が私達を豊かに生かし素晴らしい人生を歩めるようにして下さいます。
聖書に戻ります。イエス様はパリサイ人の家において食事をしていました。パリサイ人はイエス様に対して好意的ではありませんでしたが、イエス様はそのような人達にも福音を届ける為に共に食事をしていました。そこへ罪の女がやってきました。町の中で誰が見ても「罪の女」とわかるという事は遊女であったと想像することが出来ますが、誰もがこの女の人に「罪の女」というレッテルを張っていたのだと思います。
人はレッテルを張るのが好きな動物です。私もよくレッテルを張られます。大食い、体脂肪、メタボリック、ダイエットなどの話が出ると必ず私を見ます。私は太っているというレッテルを張られています。人はレッテルを張って、「この人はこういう人だ」と決めつけようとします。そしてレッテルを張られた方は、そこから抜け出そうとする気持ちがなえてしまい変わることが出来なくなってしまいます。この罪の女の人もレッテルを張られ、そういう目で見られ、抜け出すことが出来なかったのではないでしょうか。
しかし、ただ一人レッテルを張らない人がいました。イエス様です。イエス様はすべてを分かっていてもレッテルを張りません。イエス様は誰に対してもレッテルを張らずに愛して包んで下さいます。
だから、この罪の女の人はイエス様の所に行くことが出来たのです。そして、イエス様の足を涙で洗い、髪の毛でぬぐい、その足に接吻して、香油を塗りました。イエス様はその罪の女の人の行動を黙って見守り、受け入れました。実はイエス様はこの罪の女の人が泣きながら近づいて来た時にこの人をゆるし愛し包んでいました。だから、パリサイ人達がどう思おうが、この罪の女の人の行動を拒否したり、否定したりしなかったのです。
そして、イエス様はこの女の人に『あなたの罪はゆるされた』『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』と語られました。この女の人はゆるされた者としてイエス様を愛する信仰をもってイエス様に向かいました。レッテルを張らないイエス様を、ゆるしを与えて下さるイエス様を愛して、自分の出来る最高の愛の行動をしました。
この女の人のようにイエス様を愛する信仰をもって行く時、その人生に救いと安心が与えられるのです。私達も今、イエス様にゆるされた者として、イエス様を愛する信仰をもって行きましょう。そして、今出来る最高の愛の行動をイエス様にして行きましょう。その人生に必ずイエス様からの救いと安心が与えられます。ハレルヤ♪

2009年1月25日(日)
夜の礼拝メッセージ 〜尺度〜

ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。 彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。『ヨシュア記5章13節〜15節』

〜尺度〜

私達人間は目の前に大きな問題や困難があると、人を「敵か、味方か」「役に立つか、役に立たないか」の尺度で見てしまいます。
実は人だけでなく、神様に対しても同じ尺度で見てしまうこともあります。
本日の聖書はそこに陥ったヨシュアのお話です。ヨシュアはモーセの後継者として、イスラエルの民をカナンの地(約束の地)に導く使命の中にありました。その途中に様々な敵と戦ってきました。そして今度はエリコの町の民と戦う事になりました。エリコの前は難航不落の城壁に囲まれていてヨシュア達イスラエルは敗戦濃厚な状況にありました。だからヨシュアは戦いの為に一人でも自分の味方、戦いに役立つ人を欲していました。
そんな中、剣を手にした強そうな人と出会いました。ヨシュアはその人に『あなたは私の敵ですか味方ですか』と尋ねました。その人はヨシュアに『わたしは主の軍勢の将として今きたのだ』と語りました。
困難を前にして焦っているヨシュアに、神様ご自身が現れて下さり、語って下さいました。そしてさらに『あなたの足のくつを脱ぎなさい』と語り、神様に礼拝をささげるように教え導きました。ヨシュアは神様の言う通りにしました。
私達も厳しい状況に置かれたり、問題が起こったりすると、人にも神様にも「敵か味方か」「役に立つか役に立たないか」の尺度で見てしまいます。そんな私達にも神様は現れて下さり、まず神様を礼拝する事を教え導いて下さいます。ヨシュアのように神様の言う通りにして行きましょう。
ちなみに、神様はこの後、ヨシュアにエリコとの戦い方を教え、勝利することができました。ハレルヤ♪

2009年1月21日(水)
水曜集会 〜神様と共に生きる〜

ハレルヤ♪本日は『詩篇119篇25節〜32節』です。
25節『わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。 』と記されています。
これは苦しみや悲しみの中に陥ってしまっている事を現しています。そして同時に、その中から助け出して下さる神様に、再び神様と共に生きれるように求めています。
私達も世の様々な出来事の中に、苦しみや悲しみや不安を覚える事があります。そして、それらが心にちりのように残ってしまう事があります。だから、神様の御言葉によって、癒され、清められるべきです。
また、32節『神様の戒めの道』を歩んで行くなら、神様に喜ばれ、人々をに喜ばれ、自分自身も真に満足と感謝のある道を歩む事ができます。ハレルヤ♪
『詩篇119篇25節〜32節』をぜひお読み下さい♪

2009年1月18日(日)
礼拝メッセージ 〜神様がして下さった事と私達が為すべき事〜

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。『ヘブル人への手紙10章 19節〜25節』

〜神様がして下さった事と私達が為すべき事〜

本日の聖書の19節〜22節には「神様がして下さった事」が記されています。まずイエス様の十字架により新しい生ける道を設けて下さいました。この新しい生ける道は、神様に愛される道であり、神様を愛する道であります。さらに神様は、私達の邪悪な良心を清め、信仰をもてるようにして下さいました。これらは人間に対しての神様の最大最高の恵みであり、人間が何よりも大切にし感謝して受けるべきものです。さらにこの恵みは私達の過去にゆるしを与え、現在に助けと守りと導きを与え、将来に平安と安心と確かな保証を与えて下さいます。私達はこの「神様がして下さった事」を手放すことなく、さらに固く握って、この恵みに生きて行きましょう。
本日の聖書の22節の後半〜25節には「私達の為すべき事」が記されています。
第一は「神様に近づく」です。祈りをもって近づく。賛美をもって近づく。聖書の言葉に親しんでさらに従って近づく。日々の生活の中でしっかりと意識して神様に近づいて行きましょう。

第二は「希望を告白する」です。神様に期待して、家族の救い、病の癒し、問題の解決、祝福される事などを口で告白して行きましょう。
第三は「愛と善行に励む」です。小さな愛と善行が誰かを励まし慰める事になります。一人一人が小さな愛と善行を行なって行く時、それがいつしか大きな励ましや慰めになります。
第四は「集会をやめない」です。神様に向かう時間、神様に向かう仲間と交わる時間を大切にして行きましょう。
神様はすでに、私達に対して事を為していて下さいました。さらにそれを継続していて下さっています。だから、私達も神様の恵みに生きて、本日の聖書にある私達人間が為すべき事を力を尽くして行きましょう。それにより、私達の周りに神様の素晴らしい事がさらに広がって行きます。ハレルヤ♪

2009年1月14日(水)
水曜集会 〜私達がすべきこと〜 『詩篇119篇9節〜16節』

若い人はどうしておのが道をきよく保つことができるでしょうか。み言葉に従ってそれを守るほかありません。『詩篇119篇9節』
本日の詩篇は自問自答で始まっています。実は日々の歩みの中で、自問することは必要です。
「自分は正しい歩みをしているだろうか?」
「自分は誰かに迷惑をかけていないだろうか?」
「自分は神様を喜ばせているだろうか?」などなど。
それによって、その歩みを軌道修正する事ができます。
そして、その軌道修正に欠かせないのが聖書です。『詩篇119篇』はこの聖書(神の言葉)の素晴らしさや重要性を語っています。
特に本日の『詩篇119篇9節〜16節』には神の言葉に対して私達がすべきことがはっきりと示されています。
神様の言葉を守る。
神の言葉を蓄える。
神の言葉を目にとめる。
神の言葉を宣言する。
神の言葉を喜ぶ。
神の言葉を忘れない。
これらを心にとめて、神様の言葉(聖書)に益々親しんで行きましょう。ハレルヤ♪

2009年1月11日(日)
礼拝メッセージ 〜明らかに〜

ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。 『テモテへの第一の手紙5章 24節〜25節』

〜明らかに〜

本日のテモテへの手紙は、パウロが弟子のテモテに個人的に書いて手紙ですが、テモテが信仰生活をするにあたっての素晴らしいメッセージが記されています。だから、このテモテへの手紙は現代に生きる私達への素晴らしいメッセージであり、キリスト者が特に耳を傾けるべき言葉です。
24節『ある人の罪は明白であって』と記されていますが、当時の教会の中に、明らかに罪を犯している人がいたということです。罪とは「的外れ」という意味がありますが、初代教会においても的外れな言動で迷惑をかけていた人が教会の中にいたことが推測されます。ということは、現代の教会においてもいろいろあるのは当たり前です。しかし、忘れてはいけないのは、神様はそれらの罪を放っておくお方ではありません。必ず明らかにされます。今、明らかにならなくても後には明らかになると記されています。聖書に『神の慈愛と峻厳とを見よ』『神は侮られるようなお方ではない』と記されています。私達は信仰生活において罪や的外れがあるのなら、早かれ遅かれ明らかになるのなら、早めに悔い改めて、的外れをやめて、私達キリスト者が本来向かうべき神様という的(まと)にむかって進んで行きましょう。
次に25節『それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり』と記されているように、私達がキリスト者として為す良い業もすぐに明らかになり、ならない場合も後には必ず明らかになります。
私達がキリスト者としての良い業は何といっても、まずは「主をほめたたえる事」です。主をほめたたえる事によって神様を喜ばせることでき、これによって私達がキリスト者であることを明確に世に示すことができます。
次に私達はキリスト者として、「とりなしの祈り」という良き業をすることができます。聖書に『義人の祈りは大いに力があり効果のあるものである』と記されています。私達一人一人のとりなしの祈りはすぐにその結果が明らかにならなくても、いつか必ず神様の御業が現れて、明らかになります。
次に私達キリスト者は「隣人を愛する」という良い業をする事ができます。この良い業はけっこう早めに明らかな効果が現れます。この「愛する」という良い業をして行く時、それぞれの周りに平和が広がり、その心の中が平安で満たされます。
最後に私達はキリスト者として「福音を伝える」という良い業をするけとができます。神様は私達に『福音をのべ伝えよ』『時が良くても悪くても、御言葉を伝えよ』と命じています。人を本当に幸せにするのは福音しかありません。人に本当の解決を与えるのは福音しかありません。だから、この福音は全ての人に必要であり、私達キリスト者が伝えるべきものです。この「福音を伝える」という良い業も、すぐに明らかになって人が神様の救いを受けるたり、すぐに明らかにならなくても、福音を伝える業は必ずいつか明らかにされます。
私達の神様は全てを明らかにされるお方です。だから、信仰生活において、罪や的外れは止めて、主をほめたたえる事、とりなしの祈り、愛する事、福音を伝える事などの良い業を行なって、神様の素晴らしい事を世に明らかになるよう力を尽くしてまいりましょう。ハレルヤ♪

2009年1月7日(水)
水曜集会 〜神様の恵み〜

ハレルヤ♪今年最初の水曜集会が行われ、『詩篇118篇』が開かれました。
この詩篇は『主に感謝せよ。主は恵み深く、そのいつくしみはとこしえに絶えることはない』との御言葉で始まり、神様の恵みや守りや助けが与えられるとの約束が記されています。
実は、今年の最初の礼拝で「2009年は主の恵みの年!」とメッセージしたにも関わらず、その夜、息子が入院し、恵みと反対のように思われました。
しかし、神様の恵みや慈しみは、私達が困難の中に置かれたり、厳しい所を通る時に、特に豊かに味わう事ができます。
腹痛を訴える息子を夜中に救急病院に連れて行き、神様の守りの中に適切な治療を受ける事でき、昨日から水が飲めるようになり、今日からはお粥を食べれるようになりました。その全ての時に、私達は平安をいただき、神様の恵みを豊かに感じました。
今年、私達は本日の詩篇に書かれているように、敵に囲まれたり、押されたり、倒れそうになる事もあるかも知れません。しかし、そんな中にも、恵み深い主は私達の神様であり、慈しみ(愛)を豊かに注ぎ続けて下さいます。
『詩篇118篇』をぜひお読み下さい。ハレルヤ♪

2009年1月4日(日)
第2礼拝メッセージ 〜創造主〜

はじめに神は天と地とを創造された。『創世記1章1節』

〜創造主〜

この宇宙、地球、そして人類の歩みは、神様の創造によって始まりました。そして、神様の創造物はどれも素晴らしく、害ではなく益(幸い)をもたらせてくれます。神様の創造された物の中で、そのまんまの残っている山や海や空や太陽や雲や星や月などの自然は、私達を幸せな気持ちにしてくれます。だから、私達はそれらの自然を大切にして、自然からの恵みをもっと味わい感謝して行くべきです。  
自然だけでなく、私達人間も神様による創造物の一つです。そして神様はこの人間からも害ではなく益(幸い)を出す事ができるように創ってくださいました。しかし、残念なことに、現実には様々な害を出しています。それは一人一人の心の中にイエス様が入ってないからです。心の中にイエス様が入って下さるように、聖書に親しみ、祈りの時、賛美の時、奉仕の時を大切にして、イエス様の心になって、神様の創造物の一つとして益(幸い)を出して行き、神様を人々を喜ばせて行きましょう。ハレルヤ♪

2009年1月4日(日)
新年第一聖日 礼拝メッセージ 〜主の恵みの年〜

主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。イザヤ書61章1節〜3節

〜主の恵みの年〜

ある牧師さんは、毎年元旦にその年に名前を付けるそうです。そして、その名前によって一年の方向性が決まり、その通りに進む事ができるそうです。一年一年ではなく一日一日に名前を付けている人もいます。「今日は嬉しい日」「今日は仕事が進む日」と付けると、その通りになるそうです。実は私達も知らず知らずのうちに、名前を付けていて、その通りになっていることがあります。「今日も忙しい日になるなぁ」と付けると、マジで忙しくなり、「今日は面倒くさい日に…」と考えらるとそうなり、「今日はパッとしない日に…」と思うとその通りになってしまいます。だから、どのような日になるか、どのような年になるかは、私達自身がどう思い考え、どういう名前を付けるかで決まってきます。
そこで、私は2009年に本日の聖書に記されている「主の恵の年」と名前を付けました。主の恵みが私に注がれる年!主の恵みを私が大いに味わう年!主の恵みを私が伝える年!になる事を期待していきたいと思います。そして、その主の恵みが本日の聖書イザヤ書61章に数多く記されています。まず「主の霊が私に臨む」です。聖霊様が注がれると言う恵みにより、私達は最高の導きを受ける事ができます。次に私達は福音を伝える恵みに携わる事ができます。ちなみに、人が真に幸せに生きるには福音しかありません。次に私達は人を癒す業に携われます。それは祈りによってです。また自分自身の癒しにも携わる事ができます。これも祈りによってです。次に解放する業にも携わり、キリストにある自由の中を元気に進む働きもする事ができます。次に悲しむ者を慰め、喜びの冠や賛美の衣を着させる事ができます。そして私達は「義のかしの木」また「主の栄光を現す植木」と呼ばれるようになります。要は強い生命力のある神様の素晴らしい光を輝かす存在となる事ができます。
実はこれらの恵みはイエス様がこの地に来て下さった事によって、私達の上に成就したのです。しかし、現実にその恵みが現れていないは、その恵みを私達が信じきってないからです。
だから、今年2009年が主の恵みの年になるように神様を信じて、認めて、受け入れて行きましょう。
神様の恵みが豊かに注がれるよう力を尽くして祈ります。ハレルヤ♪