2008年
礼拝メッセージ

日曜礼拝と水曜集会の礼拝メッセージです。
このメッセージメールを、ご希望の方に配信しております。
恒一郎牧師宛に配信ご希望のメールをお送りください。
パソコン、携帯どちらでも受信可能です。

2008年12月28日(日)
礼拝メッセージ 〜反省〜

『われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう。』哀歌3章 40節〜41節

〜反省〜

本日は2008年最後の聖日礼拝ですが、みなさんは一年を振り返って、反省すべき事がありますか?私はたくさんあります。反省すべき事がたくさんあると言うことは、たくさん失敗があったと言うことです。しかしこれらの失敗についても、前向きに考えると、それだけ私には成長する余地が残っていると言うことです。今年、失敗や反省が多かった人は安心して下さい。みなさんは成長できます。ただ、一つ大切な事があります。それが、反省の後の行動です。
本日の聖書では、反省の後の為すべき事が記されています。『われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。』
反省の後、神様に帰る事が成長への第一歩です。なぜなら、神様のところには、私達が成長し、また正しく平和に幸せに生きる全てがあるからです。例えば、神様が全ての人に聖書を通して命じておられる『互いにゆるし合いなさい』『互いに愛し合いなさい』と言う言葉に立ち帰って、これを実際に行うならば、その人間関係に平和と喜びと楽しさが広がり、幸せを得ることができます。神様の言葉に帰る!神様の教えに帰る!神様に帰る!事が一人一人の、また、その家族、社会、学校、地域、さらに日本の幸せにつながります。
もう一つ私達が反省の後にすべき事があります。41節の『我々は天にいます神に向かって、手と共に心をもあげよう』です。手をあげると言う行動はいろいろな意味があります。まずは降参です。私達は神様の前に降参して、神様に逆らうことなく、委せてお頼りして行きましょう。さらに聖書の中に手をあげて祈った人が出てきます。モーセです。イスラエル軍が敵国のアマレクと戦った時、モーセが手をあげて祈るとイスラエルの軍が優勢になり、手を下げるとアマレクが優勢になりました。最後はモーセが手をあげ続けてイスラエルは勝利しました。私達も私達を苦しめる問題や悩みトラブルがあっても、手をあげて祈る時、そこに神様による救い(解決)と勝利があります。
神様は私達が反省して、神様の元へ帰って幸せになる事を願っています。私達は神様の元へ帰って、神様に手と心をあげ、さらなる神様の恵みの中を歩んで行きましょう。ハレルヤ♪

2008年12月21日(日)
クリスマス特別礼拝メッセージ 〜イエス様を見よ〜

メリークリスマス!イエス様がこの地に来てくださった日を心から感謝し祝うのがクリスマスです。今、このメッセージを読んでいる全ての人にしていただきたい事があります。目を閉じて手を組んで「ハレルヤ!主よ感謝します!」と心からの感謝をささげて下さい。

『さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』ルカによる福音書2章8節〜14節
〜イエス様を見よ〜 
本日の聖書はクリスマスの知らせを受けた羊飼い達の話です。天使達に素晴らしい知らせを受けた羊飼い達は、恐れを感じつつも、立ち上がりベツレヘムへ向かいました。そして、飼葉おけの中に寝かされていた御子イエス様を見ました。イエス様は産まれたばかりなので、当然、羊飼い達に何かをしてあげたわけではありません。しかし、イエス様を見た羊飼い達は喜び、神様をあがめ賛美しました。2008年のクリスマスメッセージは「イエス様を見よ!」です。産まれたばかりのイエス様を見た羊飼い達は、神様をほめたたえる者に変えられました。私達も今、しっかりとイエス様を見て行きましょう。自分を見て落ち込んだり、他人を見て妬んだり、牧師を見てつまずいたりしないで、信仰をもってイエス様を見て、喜びと賛美のある人生を歩んで行きましょう。
また、私達は十字架にかかられたイエス様にも目をとめて行きましょう。私達の罪の為に身代わりとなり、イエス様は十字架にかかってくださいました。私達が神様の恵みを受けられるようなる為にイエス様は十字架にかかってくださいました。十字架にかかられたイエス様を見上げていく時、私達一人一人にゆるしと愛が与えられ、神様と共に歩み事ができるのです。
つぎに私達はよみがえられたイエス様も見て行きましょう。イエス様はよみがえる事によって、人間がどうすることもできない「死」を乗り越えさせてくださいました。よみがえられたイエス様を見上げいく時、私達は、死に向かって生きる人生から天国に向かって生きる人生に変えられ、希望をもって生きる事ができます。
私達は今、聖書を通して、イエス様を見ることができます。イエス様を見上げて、喜びと賛美と愛とゆれしと希望のある人生を天国を目指して進んで行きましょう!ハレルヤ♪

2008年12月14日(日)
礼拝メッセージ 〜ALL OK〜

『主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく、すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。』詩篇145篇17節〜18節

〜ALL OK〜

クリスマスはイエス様の誕生日です。だからクリスマスを前にして、私達は主を知り、主に近づくべきです。本日の聖書は、主がどのようなお方で、その主にどのように近づくかがはっきりと示されています。
ます、主は全ての道に正しいお方です。イエス様はこの地において全て正しい歩みをされました。時代に流されず、人に流されず、正しい歩みをしました。イエス様は道徳的においても正しい歩みをされましたが、イエス様にとっての正しい歩みとは、神様の御心の道を歩むということでした。全てにおいて正しい歩みをされ、今も正しさ示し続けて下さるお方が、私達の信じるイエス様です。だから私達はこれからも安心して信じて、頼って、聞いて、従ってまいりましょう。
次に、私達の主は全ての御業に恵み深いお方です。そしてその最高の恵み深い御業がイエス様の誕生、イエス様の十字架と復活、ペンテコステです。イエス様の誕生を表す御言葉がヨハネ福音書に記されています。『すべてを照らす真の光があって世に来た』です。人は誰でも闇を持っています。誰にも言えない失敗や傷ついた経験や忘れられない悲しい出来事などです。それらの心の闇は、弱っている時などにさらに拡大し、考え方や思いを否定的、消極的にしてしまいます。それらの全ての闇を照らして下さるのがイエス様です。闇がどんなに大きくても、イエス様の光には勝つことはできません。イエス様の誕生は今も私達にとって恵み深い御業です。
次に、イエス様の十字架と復活は、裁かれ、呪われ、地獄に落とされて当然の人間を救い、愛し、癒し、清め、祝福し、天国の民としてくださいます。人間にはどうすることもできない世界がここにあります。この最高に恵み深い御業を心から感謝して行きましょう。
さらにペンテコステも恵み深い御業です。今、信じる一人一人に聖霊様が臨み、神様と共に生きる知恵を与えて、幸せへの最高の導きを与えていて下さいます。この聖霊様による日々の恵み深い御業を益々味わって行きましょう。
このように、神様は正しく、恵み深いお方です。この神様に近づくには、本日の御言葉のように、誠をもって呼べばよいのです。特に御言葉には『すべて主を呼ぶ者』と書かれているように、どんな人生を歩んできた人でも、今どのような状況ある人でも主を呼ぶ時、主は近くにいて下さいます。主が近くにいて下さるならば、そこに主の守りと助けと導きがないはずがありません。
私達の主は全ての道で正しく、全ての御業に恵み深く、まさに「ALL OK」なお方です。この主を呼んで、主に近づいていただき、主の守りと助けと導きの中を歩んで行きましょう。ハレルヤ♪ 

お知らせ
いよいよ来週12/21(日)はクリスマス特別礼拝です。イエス様のご聖誕を心から感謝し礼拝してまいりましょう!
また、夜7時からクリスマスコンサートを行います。ご家族、ご友人をお誘い合わせ上、ぜひお越しください!
メリークリスマス☆

2008年12月7日(日)
礼拝メッセージ 〜これからの幸せの為に〜

聖書『イエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』マタイによる福音書9章9節

〜これからの幸せの為に〜

イエス様はいろいろな人に声をかけています。特に弟子にする為に声をかけられました。普通、自分の弟子にしようと思うなら、その人の資質や能力や経験を重視して選びますが、イエス様の選びの基準は違いました。その人の今までの歩みや能力や地位や経験ではなく、その人のこれからのことを考えて声をかけられました。

そして、本日の聖書に出てくるマタイもその一人です。マタイは収税所に座っていました。彼は取税人でした。当日、取税人はローマ帝国の手先としてユダヤ人から税金を取り立て、なおかつ、平気で不正を行い私腹を肥やしていました。当然、ユダヤ人から軽蔑され嫌われる存在となっていました。
イエス様はそんなマタイのこれからの人生を考えて、彼の中の悪をストップさせ、神様に喜ばれ、人に喜ばれ、彼自身も幸せな人生を歩めるようなる為に声をかけられました。『わたしに従ってきなさい。』
彼は立ち上がってイエス様に従いました。そこから彼の幸せへ向かって歩む人生がはじまりました。
実は彼の元々の名前は「レビ」でした。「マタイ」と言う名はイエス様によってつけられたもので、意味は「神の賜物」です。彼はイエス様と共に三年間過ごし、イエス様の十字架を見て、復活したイエス様に会い、ペンテコステの日に聖霊を受け、真のキリストの弟子として、神様からの賜物を生かし、新約聖書の最初の書簡である「マタイによる福音書」を残しました。そしてこの福音書を通して今も多くの人が真理の道に導かれています。

イエス様は今、私達一人一人にも『わたしに従ってきなさい』と声をかけ、一人一人が神様に喜ばれ、人に喜ばれ、自分自身も幸せを感じる道に導こうとしています。イエス様に従って行きましょう♪ハレルヤ♪

2008年11月23日(日)
礼拝メッセージ 〜聖霊様の導き〜

『すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。』ローマ人への手紙8章14節〜15節

〜聖霊様の導き〜

イエス・キリストを自分の救い主と信じる者は、神の子とされ、神を「天の父」と呼ぶことができる。この真理に立つ者がクリスチャンです。そして、クリスチャンは神様がおられる事、その神様に助けられ、守られて生きていることが普通というか当たり前に感じることができます。実はこの真理に立ち、神様の存在を普通に感じ信じられるようになるには次の3つの事によるのです。

第一は「神様の選び」です。ヨハネ福音書に『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。』と記されています。神様の選びによって、私達は先にクリスチャンとなり、教会に集い、礼拝をささげることができるのです。この選びを感謝して喜んで行きましょう。

第二は「神様の時(チャンス)」です。先日ある高校生が「人生には3回のもて期がある。そのもて期を見逃さないと幸せをつかむことができる。」と語っていました。私は「もて期って何?」と聞きました。彼は「もてる時期のことだよ。ちなみに俺のもて期はまだきていない。」と語っていました。実は同じような事をある牧師さんが伝道集会で語っていました。「誰でも人生に3回は神様と出会う時(チャンス)がある。今日がその一回です。このチャンスを見逃さず、イエス様を信じて、救いを獲得して下さい。」と熱く語っていました。私達は今、神様からのチャンスを見逃すことなく、つかんで救いを獲得することができました。ありがたいことです。

第三は「聖霊様の導き」です。イエス様の誕生、イエス様の十字架と復活、召天、ペンテコステは、今から二〇〇〇年以上も前に起こったイスラエルでの出来事であり、実際に映像や音声が残っているわけでもないし、結局は人から人への伝承であり、私達もそれを聞いただけです。それなのに今信じていられるということは、聖霊様の導きがあったからです。
そしてこの聖霊様の導きは、私達が天国へ行くまで変わることなく途切れることなく続けられるものです。さらにこの聖霊様の導きは私達の信仰生活を確実に正しい方へ明るい方へ平和な方へ愛のある方へ進ませて下さいます。また成長できるようにも導かれます。聖霊様の導きは私達の幸せに欠かすことのできないものです。

しかし、残念なことにこの聖霊様の導きに対抗してしまうものが私達の内側にあります。それは自我です。自分中心の考えや計画を押し通そうとし、欲・得・楽を求めてしまうものです。実は人類最初の人間であるアダムとエバが神様に逆らって以降、この自我が人間の内側に入り込んできたのです。そして自我が大きくなればなるほど、神様から離れ悪に生きて残念を広げてしまうのです。ちなみにこの自我は私達の内側からなくなることはありません。だから、自我を小さくしていただくためにキリストの言葉を豊かに私達の内に蓄えて行きましょう。そして御言葉による聖霊様の導きに従ってまいりましよう。
本日の御言葉では『すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』と示しています。聖霊様の導きに従って、真の神の子として天国を目指して行きましょう。さらに聖霊様の導きに従って真の神の子となるならば、私達は神様を『アバ父よ』と呼べるようになり、神様ともっと親しく交わり、神様のさらなる恵みに生きることが出来ます。ハレルヤ♪

2008年11月16日(日)
礼拝メッセージ 〜クリスマスを前にして@〜

『目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。』コリント人への第一の手紙16章13節〜14節 

〜クリスマスを前にして@〜

本日は、召天者追悼記念礼拝ですが、先日、ふと思ったことがあります。それは天国でのクリスマスです。12/25のクリスマスに天国ではどのようにお祝いしているのだろうか。たぶん、イエス様を囲んで、母マリヤが当時の苦労話をしたり、最初のクリスマスに参加した羊飼い達の感動の証があったり、天使の賛美があったり、とにかく最高のクリスマスをお祝いしているのではないでしょうか。そして、先に天に召された兄弟姉妹もその中で、素晴らしい時を持っているのではないでしょうか。私達は、いつの日かその最高のクリスマスに同席できることを信じ期待しつつ、今この地上において今年もクリスマスを共にお祝いしてまいりましよう。そしてそのクリスマスに備えて、御言葉で整えられて行きましょう。
本日は「クリスマスを前にして」という題のメッセージですが、11月12月は誰もが忙しくせわしなくなる月です。そんな中、教会ではクリスマスの各行事が行われます。だから、忙しさの中に流されないように四つの御言葉が与えられました。
第一番目は『目を覚ましていなさい』です。これは礼拝のメッセージの時に眠ってしまう人々に語られているものではなく、心の目を覚ましているようにとのメッセージです。心の目は善悪を正しく判断し、進むべき道を知り、さらに神様の御心を知ることができます。心の目を閉じてしまうと、悪に流され、様々な事に迷い、神様から離れてしまいます。だから、心の目を覚まして、神様の御心を深く知り、神様の示される道を歩んでまいりましょう。
第二番目は『信仰に立ちなさい』です。これは神様との関係を強く保って進みなさいということです。まず神様に向かう時間を大切にして下さい。そして神様との関係をより良いものにして、全ての事に神様に介入していただき、神様に期待して進んで行きましよう。そこに神様によるしるしと不思議と奇蹟が現れてきます。
第三番目は『男らしく強くあってほしい』です。当時は、男が強い者の象徴のようでありましたが、今はそうでもないと言うか、各家庭によって、母親が強い家庭もあるし、おばあちゃんが強い家庭もあるし、娘が強い家庭もある。まあ、私の周りでは、女性が強い傾向にあるみたいです。とにかく、誰が強いかではなく、大切なのは、それぞれが「強くある」ということです。当時のコリントの人々は、サタンの攻撃により、真理からそれて、人間の言葉に流され混乱していました。だからパウロはこの手紙を書いたわけですが、私達もサタンや人間の言葉によって流されたり迷わされたり混乱したりしないように、今、イエス様としっかりと結びついて強くなって行きましょう。
第四番目は『いっさいの事を愛をもって行いなさい』です。実は忙しかったりせわしなくなったりすると、一番忘れがちなのがこの「愛をもって」です。愛とはその人を大切に思う気持ちです。私達はまず神様が一人一人を本当に大切に思って下さる事を、イエス様を身代わりするぐらい愛あしている事をしっかりと覚えて行きましょう。あなたは神様に愛されています。そして、この神様の愛は一人一人を「愛される者」から「愛する者」に変え「愛をもって行動する者」に変えて下さいます。愛をもって行動する所に平和や楽しさが広がります。
今年もあと一か月ちょっとです。益々忙しくなるでしょう。だからこそ、流されないように迷わないように混乱しないように、「目を覚まして」「信仰に立って」「強くなり」「愛をもって行動して」今この地上においてできる最高のクリスマスをお祝いしてまいりましょう。ハレルヤ♪

2008年11月9日(日)
夜の礼拝メッセージ 〜人を幸せにする実力〜

『ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。』ルカ福音書5章19節〜20節

〜人を幸せにする実力〜

本日の聖書を見てもわかるように、当時イエス様はものすごい人気があり、どこへいっても大勢の人達がイエス様のもとに押し寄せて来ました。もちろん、人気だけではありません。実力も兼ね備えていました。そして、その実力は人を「幸せにする実力」です。病める人を癒し、その人を幸せにする。悩める人を解放し、その人を幸せにする。悲しんでいる人を慰め、その人を幸せにする。イエス様はすべての人を幸せにする実力を持っているお方です。そして、その実力を発揮させる方法が本日の御言葉に記されています。『イエスは彼らの信仰を見て』です。イエス様の実力を発揮させる方法は信仰です。信仰とは神様を信じて期待する心のことであり、本日の聖書に出てくる4人は、病の友人の癒しの為にその信仰をもってイエス様に近づきました。ちなみにその病の友人は寝たきりで声も出せない状態にありました。当然、自分で癒しを願うことも、イエス様のもとへ行くことも、まして信仰告白をすることもできません。イエス様は何もできない本人ではなく、その4人の友達の信仰を見て、その人を癒しました。
今、私達の周りにも、病の中にいる人や悩みの中にいる人でイエス様に声を上げられない人がいるのではないでしょうか。その人達がイエス様の癒しや解決や救いを受ける為に、先に信じている私達が信仰を働かせて行きましょう。私達の信仰を見て、イエス様は人を幸せにする実力を発揮して下さいます。ハレルヤ♪

2008年11月2日(日)
礼拝メッセージ 〜キリストのものとして〜

『このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。』コリント人への第一の手紙 4章1節〜2節

〜キリストのものとして〜

本日の聖書の最初に『このようなわけですから』と記されていますが、どのようなわけだかが、3章の最後に書いてありました。『そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである』。私達はキリストのものだから、本日の御言葉のように一人一人が『キリストに仕える者』『神の奥義の管理者』とされているのです。

私達は『キリストに使える者』として何はともあれ礼拝をささげてまいりましょう。イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から解放された目的は神様に礼拝をささげる為でした。私達がイエス様により罪の奴隷から解放された目的も神様に礼拝をささげる為です。礼拝をささげて、神様との正しい関係を保ち、神様の恵みに生きる為です。今、私達は『キリストに仕える者』として力を尽くして礼拝をささげてまいりましょう。

次に私達は『神の奥義の管理者』であることをしっかりと覚えて、実際に神の奥義を管理してまいりましょう。では神の奥義とは何でしょう。それは「信仰の奥義」と「愛の奥義」です。これらの管理者である私達はこれらを活用することができます。信仰の奥義を活用することによって、私達を悲しませ苦しませる様々なマイナスをプラスに変えることができます。この奥義を隠しおかずに活用して祈り求めて下さい。そうすれば、無から有を生み出し、無尽蔵の富を持っておられる神様がしるしと不思議と奇蹟を行って下さいます。

そして、もう一つの愛の奥義も活用してまいりましょう。これを活用することによって、神様に愛されている事を強く感じられるようになり、イザヤ書に記されている『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』との神様の言葉をそのまんま受け取ることができ、自分を大切にするようになります。さらに、この愛の奥義は隣人を愛することができるようにもして下さいます。ある牧師さんが「クリスチャンは天国に行くまでどんどん愛する人が増えていきます」と語っていました。愛の奥義を活用して愛する人が増えてくると当然私達の周りに平和が広がって行きます。

私達は今キリストのものとして、『キリストに使える者』として忠実に礼拝をささげてまいりましょう。また、『神の奥義の管理者』として信仰と愛を活用し、神様の御業と平和の中を歩んでまいりましょう。ハレルヤ♪

2008年10月26日(日)
礼拝メッセージ 〜土の上を歩く〜

『だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。』ペテロ第一の手紙5章6節〜11節

〜土の上を歩く〜

イエス様の弟子の一人であるペテロはその手紙の中で、最初と最後に平安が与えられるように祈っています。それはペテロ自身の人生の歩みがいろいろあったからではないでしょうか。ペテロはイエス様と出会って『人間をとる漁師に…』のお言葉に従い弟子となり、イエス様と共に生活し、様々な素晴らしいメッセージを聞き、驚くばかりの奇跡を見て、さらにイエス様の変貌にも立ち会い、『あなたこそ生ける神の子キリストです』と素晴らしい信仰告白をしたかと思えば、イエス様が裁判にかけられている時に、イエス様のことを「知らない」と裏切り、自分弱さを痛感し、イエス様がよみがえった後、『あなたはわたしを愛するか』と声をかけられ、さらに『わたしの羊を養いなさい』『あなたはわたしに従ってきなさい』と言われ、初代教会建設と宣教活動に力を尽くし天に召されました。
実はペテロはいろいろあり過ぎの人生の中で、水の上を歩く経験もしています。これは普通では考えられないような特別な体験です。実は、私達も神様を信じて行く人生において、水の上を歩くような特別な体験をすることがあります。驚くべき癒しを受けたり、急に救いの道が開かれたり、特別なプレゼントを受け取ったりすることがあります。当然、興奮するし、感動や感謝も大きいでしょう。もちろん、その一つ一つは大切な体験ですが、神様はペテロを通して、日々の生活でしっかりと土の上を歩く事の大切さを語っています。その歩みが平安を得る道です。そして、その歩む方法を本日の御言葉が教えています。

第一番目は6節にあるように神様の前に謙る事です。聖書に『神は高ぶる者を退け、謙る者に恵みを賜う』また『謙遜は栄誉に先立つ』と記されています。恵みと栄誉を得たいのならば、日々神様の前に謙って、神様の御言葉(聖書)の権威のもとに伏して行くべきです。
第二番目は7節の思い煩いを神様に委ねる事です。それぞれ抱えている全ての事を神様に祈ってまかせて行きましょう。

第三番目は信仰の目を覚まして行く事です。聖書に『主を仰ぎ見て光を得よ』『主を仰ぎ見るものは救われる』と書いてあります。日々の生活において光と救い(神様の解決)を得るには信仰の目を開いて進む事です。そしてこの信仰の目を開いて進む事によってサタンに勝利することが出来ます。

今、私達は神様の前に謙って、神様に全てを委ねて、信仰の目を覚まして進んで行きましょう。そうすれば、10節にある『あふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。』の約束が一人一人に成就します。
私達は天国に行くまで、水の上を歩くような体験をする事があるでしょう。その時は思いっきりドキドキして神様の素晴らしさを強く感じて下さい。そしてまた日々の生活の中でしっかりと神様と共に土の上を歩き、平安な人生を進んで行きましょう。ハレルヤ♪

2008年10月19日(日)
礼拝メッセージ 〜神様の憐れみの法則〜

『そこで彼は本心に立ちかえって言った「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。ぞうぞ、雇人のひとり同様にしてください」。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。』ルカ福音書15章16節〜20節

〜神様の憐れみの法則〜

本日は、放蕩息子の話です。この話を簡単に言うと、登場人物は、お父さんと放蕩息子とその兄さんの3人で、その放蕩息子がお父さんの財産を分けてもらって、好き放題やって、苦しくなって、反省し、お父さんの所に帰ってきて、お父さんが許して温かく迎え入れ、それを見た兄さんがキレたみたいな内容です。考えてみれば、この放蕩息子は調子良過ぎで、ちゃっかりし過ぎで、兄さん怒るのは当たり前です。しかし、神様は、この放蕩息子が人間の姿であり、さらにこのお父さんが神様の姿であることを私達に伝えています。

この聖書箇所を読めば分かるように、この放蕩息子はただただお父さんの憐れみによって、苦しく汚い所から脱出し、もう一度息子としいて生きられるようになりました。実は私達一人一人も同じです。ただただ神様の憐れみで、罪から贖い出され、キリストによる救いにあずかり、神の子として生きられるようになりました。これが、私達人間に示されている神様の憐れみの法則です。
そして、この神様の憐れみの法則によって、私達は日々の信仰生活においても神様の恵みを豊かに受け取る事が出来ます。そして、この法則を活用する方法が本日の聖書の放蕩息子の行動の中に見ることが出来ます。まず、放蕩息子は17節にあるように「本心に立ち返りました」。本心に立ち返るとは、創り主なる神様に心を向けることです。簡単に言うと「神様のことを思う」です。神様のことを思うと自分の姿が見えてきて、自分の本当に為すべき事が見えてきます。

2番目に、放蕩息子はお父さんの所には、豊かになる全てがある事を認め宣言しました。私達も神様の所には、人を豊かにする全てがある事を認め、信じ、宣言して行きましょう。ローマ人への手紙に『ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。』と記されています。神様は私達に万物を与えて豊かにして下さいます。

3番目に、放蕩息子は自分の状態を見つめ認めました。『わたしはここで飢えて死のうとしている』と。私達も自分の愚かさ、弱さ、ずるさ、汚さ、浅はかさを認めて行くことが大切です。実はそこが分からなければ次には進めません。

4番目に、放蕩息子は悔い改めました。『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』と。私達も罪を犯すことがあります。罪とは的外れと言う意味があり、神様に対しての的外れな行動や人に対しての的外れな言動の事です。これらを悔い改めて行くことが神様の憐れみを受ける大切なポイントになります。

5番目に、放蕩息子は実際にお父さんの所に帰りました。要は行動に出たのです。私達も神様の憐れみを受ける為に行動が必要です。神様のことを思い、祈りの時を持つ。神様の豊かさを知る為に聖書を読む。神様をほめたたえる礼拝をささげる。それら一つ一つの行動は神様の憐れみを受けるべく大切な備えになります。

この後、聖書では『まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。』と。お父さんはこの放蕩息子をずっと待っていました。そして、帰ってきた汚い臭い息子を抱きしめました。神様は私達に対しても同じようにして下さいます。私達を待っていて下さいます。だから、汚いままで、弱いままで、愚かなままで、神様のもとへ帰りましょう。神様は私達を抱きしめて、洗い清め癒し神の子として豊かにして下さいます。

今、私達にこの神様の憐れみの法則が与えられています。そして、これによって私達は神の子として豊かな人生を歩む事が出来ます。そして、その豊かさは自分だけではなく、周りの人も潤すことが出来るのです。神様の憐れみの中を謙って感謝して進み、神様にあって全ての面で豊かになって下さい。ハレルヤ♪

2008年10月12日(日)
礼拝メッセージ 〜苦笑から喜びの笑いへ〜

神は言われた「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。」創世記17章15節〜19節

〜苦笑から喜びの笑いへ〜

聖書の中には様々な人達が登場してきます。そして、その中で、神様の祝福を受け取った人には、ある共通点があります。それは変化です。神様との関わりや様々な経験の中に変えられ、成長し、祝福の中を生きるようにされました。
今、私達もさらなる祝福を受ける為にも、神様との関わりの中に、また、様々な経験の中に変えられ、素晴らしい成長をして行きましょう。その為にも、自分の中に「私は今のままではない」という思いを持ち、聖書を通して変化(成長)の道を教えられて行きましょう。
本日はアブラハムの信仰を通して教えられて行きたいと思います。信仰の父と呼ばれたアブラハムは、神様によって豊かな人生を歩みました。なぜ、アブラハムは豊かだったのでしょうか。それは、神様に対して従順だったからです。
創世記12章に、アブラハムの名前が初めて聖書に出でくるわけですが、神様から「故郷を離れて、神様の示す地へ行きなさい」との命を受けた時、アブラハム(当時はアブラム)は、「いで立ちました」。嫌々ではなく、また、自分の都合や家庭の事情などの言い訳をすることなく、従順に神様の御言葉を行いました。神様はそのアブラハムの信仰の姿勢に責任をもって人生を豊かに祝福して下さいました。私達にとっても豊かな人生の秘訣は、神様の御言葉に従順になることです。
アブラハムは豊かな人生を歩んでいましたが、一つだけ痛いところがありました。それは自分が受けた神様の祝福を受け継ぐ子孫がいないという事です。人は誰でも弱さや痛いところの一つや二つや三つや四つはあります。ちなみに私は10個ぐらい・・・。そしてそれが不安や悩みの元となって、私達から笑顔を奪って行きます。実は、神様はその弱さや痛みをそのままでよいとは思っていません。そこにも介入して事を為されるのが私達の神様です。

本日の聖書の御言葉は、アブラハムの弱さや痛みの部分に、神様が介入して、祝福の約束を語られているところです。その約束とは、100歳のアブラハムと90歳の妻サラから男の子が生まれるという信じがたいものでした。この御言葉に対してアブラハムは笑いました。この時の笑いは喜びの笑いではなく苦笑です。苦笑とは心の中で「そんなバカなっ!」とあきれた思いを持ちながら、鼻から息を出す笑いのことです。
しかし、苦笑しつつも、この神様の約束の御言葉を記憶しました。ここが大切なポイントの一つ目です。私達も聖書を通して語られる神様の素晴らしい約束の御言葉に、苦笑してしまってもよいのです。ただ、アブラハムのようにそれを記憶してまいりましょう。
エレミヤ書29の11に『主は言われる、わたしかあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。』という素晴らしい約束があります。さらに詩篇には『主は恵み深く、そのいつくしみは永久に変わることはない』と記されています。今、平安や将来や希望からかけ離れた所にいても、また、恵やいつくしみを感じることができなくても、これらの神様の約束を覚えて行きましょう。これが苦笑から喜びの笑いに変わる第一歩です。

次に、アブラハムはこの神様の約束を忍耐をもって待ちました。自分の内側から疑う心がなくなり、信じることができるまで、祈りをもって待ちました。これが苦笑から喜びの笑いに変わる第二歩目です。

そして、もう一つアブラハムがしたことは、神様の命じられたように名前を変えたことです。聖書クイズの中に、「妻は胃を取られ、夫は歯を入れられた夫婦は誰でしょう?」というのがありましたが、サライはサラに、アブラムはアブラハムに名前を変えました。名前を変えるということは、自分のイメージを変えるということです。アブラハムもサラも子どもができないことに関して、諦めていました。「私達にはできない」「私達には無理だ」と考えを持っていました。そのイメージを神様は変えて下さいました。否定的な消極的なイメージから、創造的な積極的な肯定的なイメージに変えて下さいました。それにより、アブラハムは「私達はできる」「神様にあってできる」に変えられました。
後に、アブラハムとサラから、イサクという男の子が産まれました。そして、みんなで喜びの笑いをすることができました。

私達も神様との関わりの中に、アブラハムのように変えられて行きましょう。そして、今は苦笑してしまうような約束でも、しっかりと記憶して、忍耐をもって祈り待ち、イメージを変えて、神様の祝福を実際に獲得して、喜びの笑いをして行きましょう。ハレルヤ♪

2008年9月28日(日)
礼拝メッセージ 〜新しい打穀機〜

主は言われる「虫にひとしいヤコブよ・・・恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。 ・・・見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。」イザヤ書41章13節〜15節

〜新しい打穀機〜

本日の聖書の14節『虫に等しいヤコブよ』という御言葉は、新改訳聖書では『虫けらのヤコブよ』と訳されています。そして、ある本に、ここに出てくる虫は「ミミズ」と記されていました。どっちが頭か尻尾か分かりにくいミミズ。夏の日照りにカサカサになっているミミズ。神様から見たら私達はミミズレベルだそうです。逆に言えば、それだけ神様が偉大であられるということです。
 そして、この偉大な神様はミミズのような弱い存在の私達に『恐れてはならない。わたしはあなたを助ける』と声をかけて下さっているのです。だから、私達は神様の助けを受ける為にも、一人一人が神様の前にミミズのように弱い存在であることを認め、謙って行くことが大切です。聖書に『謙る者に恵みを賜う』と記されています。そして、神様は私達が謙って恵みを受ける為に、夏の日照りのように厳しい所に私達を置かれる時があります。ちなみに、ヤコブは何回もそのような所に置かれ、最終的に自我が砕かれ、神様の助け、神様の守り、神様の恵みを豊かに受けました。私達も神様の前にはミミズのような弱い存在であることを認め、謙って神様の助けと守りと恵みを受け取って行きましょう。

 そしてさらに、本日の御言葉で、神様はミミズを『新しい打穀機とする』と語っています。打穀機(脱穀機)とは、もみ殻を取り除ける機械で、それによって人は穀物を手にすることができます。私達はミミズのような弱い存在であっても、神様によって新しい打穀機とされ、神様の恵みを手にする者とされるのです。
 しかし、打穀機も動かさなければ、単なる鉄の塊です。だから、今、打穀機として、祈りと信仰を動かして行きましょう。みなさん、祈っていますか?詩篇を見るとダビデは神様に様々な事を祈り求めています。自分が助け出されるように!自分が守られるように!自分が祝福されるように!自分が清められるように!自分がゆるされるように!自分が強められるように!さらに自分の敵が滅ぶようにとも祈っています。実はダビデの祈りの多くは願い事です。しかし、それでもその願いを祈る中に、神様との関係が強くなり、神様の御心を悟り、神様の恵みと勝利を手にすることができました。だから、私達も神様に「あれしてください!これしてください!」という祈りでもいいので、どんどん祈って行きましょう。そして、ダビデのように祈り中に、神様との関係が確立され、変えられて行きましょう。

 そしてもう一つ、信仰を動かして行きましょう。へブル人への手紙に『信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する事である』と記されています。要は、信仰を動かして行く時に、神様によって将来起こる幸せを得ることができるということです。ナチスによって過酷な状況に陥ってしまったユダヤ人達は、その中で信仰を動かしました。ヨーロッパのあるユダヤ人強制収容所の壁に次のような詩が刻まれていました。
   「私は信じる。陽が差さなくても、太陽があるという事実を」

   「私は信じる。愛を感じることができなくても、愛があることを」
   「私は信じる。神が沈黙しておられても、変わることなく沈黙の後ろに神が
    おられることを」

神様を信じ続けたユダヤ人達は、民族の半数近い600万人を殺されたにもかかわらず、後に国は再建され、世界の国々と肩を並べるようになりました。

 今、私達もこの日本において、
   「私は信じる。神様を信じる人が少なくても、今にリバイバルが起きる」
   「私は信じる。家族の中で自分だけがクリスチャンでもいつか家族そろって礼拝を
    ささげられる」

   「私は信じる。様々な問題や悩みがあっても、その後ろに神様がおられることを」
この信仰をもって進み、神様が将来起こす幸せを期待して行きましょう。


 今、私達はキリストにあって、新しい打穀機です。神様の守りと助けの中に、祈りと信仰を動かして神様のなさる素晴らしい事を見て、また神様がくださる恵みを手にして行きましよう。
ハレルヤ♪


2008年9月21日(日)
夜の礼拝メッセージ 〜恐るべき者〜

『恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。』ルカ福音書12章5節〜7節

先日、書道教室の生徒が「大変!明日、関東大震災が来るよ!みんな死んじゃう!今日のうちにおいしいもの食べて楽しんだほうがいいよ!」と言ってきました。それを聞いていた別の生徒が「あ〜知ってる〜!中国の地震を予言して当てた人でしょ!」と言って、その話に乗ってきました。そして、そこにいた生徒全員が「どうしよう〜」みたいな感じになって恐怖を感じていました。
結局、その予言は当たらず、その予言者が後日「地震は延期されました」と雨天順延の運動会みたいなコメントを出していました。
実は昔から、いろいろな予言によって、人々は恐れ、不安になっていました。予言だけでなく、様々な事件や事故のニュースや身近な出来事にも恐れや不安を感じる人もいます。
本日の聖書では人が本当に恐れなければならない存在について教えています。人が本当に恐れなければならない存在は、『殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかた』であられる神様です。神様は人の命、魂に関しての権威をもっておられます。と同時に神様は人に対して、愛をもって守りと助けを与えられるお方でもあるのです。

本日の聖書に『五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。』と記されています。要は一羽では値段がつかにないような小さなすすめでさえ、神様は忘れることなく守り助けられます。だから、すすめよりもはるかに勝っている私達を神様は決して忘れることなく守りと助けを与えて下さいます。
だから、全てを治めておられ、権威をもっておられる神様を恐れて礼拝し、その御声に聞き従って、この信仰の道を前進してまいりましょう。ハレルヤ♪

2008年9月14日(日)
礼拝メッセージ 〜解放〜

『偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年もサタンに縛られいた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか。』ルカ福音書13章15節〜16節

〜解放〜

新約聖書の福音書には、イエス様が様々な人達に直接個人的に語られている言葉が数多く記されています。そして、その言葉には愛と力と慰めと励ましがあり、その人を確実に幸せに導きました。

『わたしの心だ、きよくなれ』
『行け、あたなの信じた通りになるように』
『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた』
『わたしに従ってきなさい』
『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです』。

イエス様は一人一人に必要な言葉を語り、その苦しい現状を変えて下さいました。そして、本日の聖書に出てくる人もイエス様に苦しい現状を変えていただいた一人です。この人は18年間病の霊につかれ、かがんだままで、体を伸ばすことができない女の人でした。この女の人に向ってイエス様は、『女よ、あなたの病気はなおった』と語られました。その後、イエス様は手をその人の上に置かれました。するとたちどころにその体がまっすぐになり、女の人は神様をほめたたえました。この女の人について、聖書に詳しく書かれているわけではありませんが、この人は、不自由な体でありながら、安息日に会堂に来て礼拝を守っていたことが推測されます。だからこそ、イエス様による癒しの後、すぐに神様をほめたたたえる事ができたのではないでしょうか。この女の人は病の霊から解放されて癒されました。この喜ばしい素晴らしい出来事に対して、そこにいた会堂司が律法をかざして批判してきました。聖書に『泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びなさい』ありますが、人はなかなか喜ぶ者と喜ぶのは難しいようです。この会堂司の批判に対して、イエス様が語られた言葉が本日のメッセージです。

『偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年もサタンに縛られいた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか。』

 イエス様の思いは、この女の人だけでなく、すべての人々が、サタンの束縛から解放されることです。逆にサタンの思いは、束縛です。特にクリスチャンを昔の罪や失敗で縛ろうとしてきます。しかし、イエス様の十字架の血潮はすべての罪から私達を清めて下さいます。そして、一人一人に『あなたの罪はゆるされた』と宣言して下さっているのです。だから、今さらサタンが縛ろうとしても、それは実存しないロープであり私達を縛ることができません。もし、クリスチャンの中に縛られているような感覚に陥った人がいるならば、信仰をもってイエス様の十字架を見上げて下さい。イエス様によって解放されます。私達は今、解放されています。ハレルヤ♪
サタン以外でも私達を縛るものがあります。それは自分のプライド、願望、計画です。これが全て悪いわけではありませんが、時として、神様の御心と反してしまうことがあります。そうなると、せっかく解放しようとするイエス様と対立してしまい、結局、自分で自分を縛ることになってしまいます。実は、聖書の中にそのような人が出てきます。ヤコブです。彼は自我の強い者で、神様と相撲を取って最終腰を打たれ、自我が砕かれました。そして解放され、自由な歩みをする者になりました。

今、イエス様はサタンからも一人一人の自我からも解放して下さいます。そして、一人一人が真の自由人として、神様の恵みに生きられるようにして下さいます。ハレルヤ♪

2008年9月7日(日)
礼拝メッセージ 〜神様の国の拡大のために〜

『わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名(肩書)を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。』イザヤ書45章4節〜5節

〜神様の国の拡大のために〜

本日のイザヤ書45章は、ペルシャの王クロスに語られた神様の御言葉が記されています。旧約の時代において、神様が直接異邦の民に声をかけられることは異例です。ではなぜ神様は異邦の民であるクロス王に声をかけ、彼を用いようとしたのでしょう。それは、クロス王を用いて諸国を征服させ、平和と物質的な神様の祝福を与えるため、また、イスラエルの民を解放するため、さらに人々が神様を知るためでした。実際、クロス王は神様の導きにより、シリア、アッスリア、アラビア、カバドキア、フェにキヤなどを征服し、BC539にはバビロン帝国を崩壊させました。結果、イスラエルの民はバビロンの支配から解放され、多くの民が神様を知ることになりました。

今、私達一人一人にも同じ言葉が神様から語られています。それは、私達が悪魔の支配しているこの世に神様の国を拡大させて、平和と神様の祝福を広げるため、また、私達自身も完全に解放され、悪魔の縛りにあっている人達を解放するため、さらに世の人々が神様のことを知るためです。だから、今日この御言葉をしっかりと受けとめ、神様の目的に添って神様の国の拡大のために用いられて行きましょう。では、早速その御言葉を詳しく見て行きましょう。

4節『わたしはあなたの名を呼んだ』。神様はこの地上で、一人一人を用いる為に名前を呼んでおられます。だから、神様に名前を呼ばれたサムエルのように『私はここにおります。僕は聞きます。お話下さい』と神様のお声に応答してまいりましょう。

4節『わたしはあなたに名を与えた』。ここで言う「名」は「肩書」という意味です。私にも肩書いてあります。「藤沢羽鳥福音教会牧師・シオン書道教室講師」です。「牧師・講師」と言っても実際は「何でも屋」です(笑)。

聖書に戻りましょう。本日の御言葉でクロス王に与えられた肩書は「油注がれた者」です。この肩書は現代に生きるクリスチャン一人一人にも与えられています。実際に聖霊の油が注がれているからです。そして、この聖霊の油注ぎが私達の生活の中で、知恵となり力となり、神様の国の拡大の大きなエネルギーとなるのです。

5節『わたしはあなたを強くする』。私達が神の国の拡大のために用いられるには強さが必要です。神様は3つの面に強さを増し加えて下さいます。

第一が信仰です。神様との結びつきをさらに強くし
て下さいます。それによって揺るぐことのない歩みをする事が出来ます。

第二は希望です。希望が強
くなるとは、神様への期待度が増すということです。以前、書道教室において、実力のある中学生が気の抜けたような字を書いて私の所に持ってきました。私はハッパをかけるつもりで「お前の実力はこんなものか!?」と言いました。すると彼は「こんなもんだ!」「俺の人生こんなもんだ!」と語っていました。私達も自分自身について、生活について、信仰について、「こんなもんだ」とあきらめていませんか。私達は無から有を生み出す神様を信じているのだから、一人一人は今のままではありません。こんなもんで終る人生ではありません。もっと様々な面に神様に期待し、希望をもって行きましょう。神様は私達の期待に応えて下さるお方です。

第三は愛です。私達の愛を強くして愛し合
えるようにして下さいます。当然、平和や安心や笑顔が一人一人の生活の中に増えてきます。また、愛が強くなると、誰かのために祈る事(とりなしの祈り)が増えてきます。

神様は今神様の国の拡大のために、一人一人をこの地において用いようとしています。そして、名を呼び、肩書を与え、強くして下さいます。神様からの呼びかけに、信仰をもって応答してまいりましょう。ハレルヤ♪

2008年8月31日(日)
礼拝メッセージ 〜不安からの脱出〜

『主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。』出エジプト記33章14節〜16

〜不安からの脱出〜

みなさんはどのような時に不安を感じますか?ある本に「学生はテスト前に不安を感じ、社会人は給料日前に不安を感じる」と書いてありました。みなさんはどうですか?病気になった時やトラブルが重なった時、理解できない状況に置かれた時などに不安を感じるのではないでしょうか。

本日の聖書に出てくるモーセも不安の中にいました。イスラエルの民をエジプトが解放し、荒野を旅する中で、民はわがままで、勝手で、不平不満を言い、モーセに逆らい、なおかつ、神様が最も嫌う偶像礼拝までしてしまったのです。モーセは指導者して、民を導くのに不安を感じ、神様に訴え祈りました。そのモーセの祈りに神様は『わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう』と語られました。その神様の御言葉に対してモーセは『もしあなた自身が一緒に行かれないならば、私達をここからのぼらせないでください。』と語りました。モーセにとって、神様が一緒に行って下さる事が最大の安心であり最高の喜びでした。
私達もこの地上における信仰生活は、荒野を旅するようなものかも知れません。サタンの攻撃や誘惑により不安になったり、信仰が弱くなったり、神様から遠のいてしまったりする事があります。また世の煩いや自分自身の弱さや愚かさにより不安に陥ってしまう事もあります。だからこそ、モーセのように、神様がご一緒して下さる事を最大の安心、最高の喜びとして歩んで行きましょう。

私達はイエス様を救い主として信じる信仰により、神様がご一緒して下さる事を日々の生活で知る事ができます。実際に祈りや賛美の中に神様がご一緒して下さる事を知る事ができます。また、様々な時に、神様の助けや守りや導きを受けて、神様がご一緒して下さる事を知る事ができます。生活の全てにもっと神様を頼り、神様がご一緒して下さる事を味わい知って行きましょう。そして、神様の与える安息の中を歩んで行きましょう。神様がご一緒して下さる歩みを私達がして行く時、神様ご自身を喜ばせ、また神様の素晴らしいさを世に現す事ができます。
私達は生きていれば誰でも不安を感じます。しかし、神様を信じる者にとっては、その不安材料が逆に神様がご一緒して下さるという安息を獲得する事になるのです。

今、不安の中にいる人は特に神様が一人一人に直接語っておられる本日の御言葉『わたし自身がご一緒行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう。』をそのまま受けとめて幸いな歩みをして下さい。ハレルヤ♪

2008年8月24日(日)
礼拝メッセージ …イエス様と一対一にA

それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。                     ヨハネによる福音書20章26節〜29節

〜イエス様と一対一にA〜

 ある人が、「聖書はいい。失敗した人や弱さを持った人がいっぱい載っているからいい。失敗した人や弱さを持った人から慰めを受けられるからいい。」と話していました。

 確かに人は自分と同じような失敗をした人や弱さを持った人が近くにいると安心や慰めを得ることが出来ます。私が中学生の時、学校を遅刻して職員室の前に正座をさせられていて、他にも遅刻者がいると安心しました。また、わたしが神学校に通っている時、新約概論の最初の授業で先生が聖書を何回読んだことがあるか質問してきました。一回も読んでいなかった私はドキドキしていました。そして、先生の「まだ全部読んだことのない人?」の質問に恐る恐る手を上げました。恥ずかしさと情けなさの中に顔を上げると、もう一人手を上げている事がいました。私は安心と慰めを受けました。

 この聖書の中には、いろいろと失敗をした人が数多く出てきます。本日の聖書箇所にも「信じないという失敗」をした人が出てきます。その人の名はトマスです。イエス様の弟子の一人です。

 イエス様が十字架にかかって死んだ後、三日目によみがえられて、マグダラのマリヤの前に現れ、10人の弟子達の前に現れました。そのよみがえった話を聞いたトマスは、それを信じることが出来ませんでした。そして、トマスは、「イエス様の手の釘あとに指を差し入れ、わきに手を差し入れなければ、決して信じない」と宣言してしまいました。
八日の後、今度はトマスもいる時にイエス様が現れて下さいました。イエス様は人々に『平安あれ』と語られ、さらにトマスに『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』と語られました。

 イエス様は信じようとしない者に対しても、その人が信じることが出来るように声をかけ、事を為して下さるお方です。だから、今、一人一人の家族や友人が信じていなくても、その一人一人のために祈って行くとき、イエス様がとりなして、事を為して下さいます。
その後、トマスは『わが主よ、わが神よ』と信仰告白をして信じました。するとイエス様はトマスに『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』と語られました。実はこの御言葉は、現代のクリスチャンにとって大きな慰めであり励ましになるものです。それは、私達はイエス様の御姿を見たことがないからです。イエス様を見ていないけれど信じている幸いの中に私達はいます。感謝です。

 今の世の中には、この幸いにあずかっていない人、信じないという失敗の中にいる人が多くいます。だからこそ、信じている私達が今日イエス様が語っている『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』『見ないで信ずる者は、さいわいである』とのメッセージを伝えて行くべきではないでしょうか。

 そして、私達自身も今日の御言葉をしっかりと受けとめて、これからも「信じる者」として生きて行きましょう。信じる者に与えられる救いと聖霊と癒しと祝福と天国の恵みを感謝して生きて行きましょう。また、信じる者として神様が語られ、教えられるように生きて幸いを得て行きましょう。ハレルヤ♪


2008年8月17日(日)
礼拝メッセージ …イエス様と一対一@…

『イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは先生という意味である。』ヨハネ福音書20章15節〜16節

〜イエス様と一対一@〜

信仰生活において、信仰の仲間と共に礼拝したり、一緒に祈ったり賛美したり、また慰め合ったり、励まし合ったりする事は素晴らしいことです。しかし、信仰者は時として、イエス様と一対一になる事が必要です。本日はイエス様と一対一になって関わりをもったマグダラのマリヤの信仰を通して、教えられて行きましょう。

マグダラのマリヤは、イエス様に7つの悪霊を追い出していただき、イエス様によって人生が変えられた人です。彼女は、イエス様という希望を得て、幸せに生きていました。しかし、そのイエス様が十字架にかかって死んでしまい、マリヤは悲しみの中に打ちひしがれていました。そして、イエス様という思い出に生きようとして、墓に行き、泣いていました。

実はクリスチャンの中にも、この時のマリヤのように昔の恵みの思い出に生きている人がいます。もちろん、神様からの恵みを忘れずに感謝し続ける事は大切ですが、私達は生きているイエス様と関わって、日々新しい恵みに生きるべきではないでしょうか。

マリヤは悲しみの中に、真理から外れて、目の前にいるよみがえられたイエス様を墓の番人と思ってしまいました。そんなマリヤにイエス様は『マリヤよ』と優しく力強く声をかけられました。

実は、イエス様は、今、私達一人一人の名前を呼んでいます。聖書にも『わたしはあなたの名を呼んだ』と書いてあります。たとえ、悲しみの中に真理から外れていても、疲れの中に信仰が弱っていても、世の煩いにより希望が薄れてしまっていても、イエス様は名前を呼び続け、もう一度、信仰に立てるように、真理を悟れるように、神様の恵みを味わえるように、神様にあって希望をもって生きれるようにして下さいます。だから、今、主の前に静まって、イエス様の声を聞いて行きましょう!

マリヤはイエス様の呼びかけに『ラボニ』と答えました。これは「先生」という意味で、イエス様は
自分の前を先に生き続けて下さるお方であるとのマリアの信仰告白が現れている言葉です。
イエス様は今生きています。そして、一人一人に声をかけています。私達もイエス様と一対一になって関わりをもって、『ラボニ』とイエス様に信仰告白をして、真理を悟り、信仰に立ち、希望をもって生きましょう!ハレルヤ♪

2008年8月6日(水)
夏の特別水曜集会第1弾 ・・・悪しき者と正しい者・・・

本日は詩篇第1篇より、悪しき者と正しい者について教えられました。

悪しき者とは、自分を神とし、真の神を信じない者であり、当然、神の言葉も聞く事をしません。
実は最近のクリスチャンの中に、神様の言葉を聞かないで平気な人達が増えているそうです。そのような人達は、神様の言葉である聖書を読まないから、神の御心から離れ、いつの間にか、神に対する信仰の姿勢が崩れてしまうそうです。今、全てのクリスチャンが戒めるべき点かも知れません。

次に正しい者についてです。これは神との関係が正しい者であり、イエス様の十字架によるあがないを信じ、救いを受け、聖霊様の導きの中に、神様に聞き、神様に求め、神様に頼って歩みます。そして、この正しい者は、本日の御言葉に『流れのほとりに植えられた木』のようであると記されています。要は、成長する為の水源が確保されていると言う事です。私達が信仰生活で成長する為の水源は神様です。信仰によって神様につながり、祈りと聖書と賛美により、そのつながりを強くして行きましょう。
さらに正しい者について、御言葉では『時が来ると実を結び』とあります。神様と周りの人々を喜ばせる事が出来ます。また『その葉もしぼまない』とあります。葉が生い茂る事によって、日陰を作り、人々を憩わせる事が出来ます。さらに『そのなすところはみな栄える』とあります。その生活に神様の祝福が現れます。

私達は、イエス様によって、正しい者とされました。だから、この恵みを無駄にしないで、正しい者として、日々歩んで行きましょう!ハレルヤ♪


2008年7月30日(水)
水曜集会 ・・・疑惑への勝利・・・

ハレルヤ♪本日の詩篇73篇が開かれました。この詩篇は「疑惑への勝利」という題がついています。
1〜12には神様に対する疑惑を持ちたくなるような現実が記されています。神様を信じない者や悪しき者の繁栄。それに引き替え、神様を信じる者が通る厳しい現実。当然、納得も理解もできず、神様への疑惑をいだいてしまいます。「神様は見ているのだろうか?」「神様は聞いておられるのだろうか?」「神様は存在しているのだろうか?」との思いが出てきてしまう人間の弱さを表しています。
13節〜20節には「疑惑への勝利のカギ」が記されています。疑惑を振り払うには、『手を洗う』ことです。どんな現実があろうが、それらに関係せず、自分の思いを清めることです。さらに17節にあるように、神様のおられる所に行って悟りを得ることです。
21節〜28節は「信仰による勝利」が記されています。ここらへんは直接御言葉を読んで、実際に神様にあって勝利を得て下さい。
23節『けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる』。24節『あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせる』。25節『わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない』。26節『わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心をの力、わが嗣業である』。28節『しかし神に近くあることはわたしに良いことである』。
詩篇73篇をぜひお読み下さい!


2008年7月28日(月)
礼拝メッセージ 〜知恵を得よ!道に向かえ!〜

『わが子よ、よく聞いて、知恵を得よ、かつ、あなたの心を道に向けよ。』箴言23:19

〜知恵を得よ!道に向かえ!〜

先日、ある高校生が「夏バテだ〜」と言いながら教会に入って来ました。そして、エアコンの前に立って「天国〜」と叫んでいました。最近の暑さで、誰もが軽い夏バテになっているのではないでしょうか。また、仕事バテ、勉強バテ、宿題バテ、人間関係バテ、さらに妻バテ、夫バテ、子バテ、親バテ、とにかくいろいろな事にバテている人が多くいます。
だからこそ、本日の御言葉のように『よく聞いて、知恵を得る』べきです。まず私達は、神様に聞くべきです。毎日、聖書を開いていますか?毎日、神様の御言葉を聞いていますか?クリスチャンは御言葉を読まないと、魂がバテてしまいます。魂がバテると、神様との関係が弱く感じるようになり、神様の御心やご計画から遠のいてしまいます。そして、そこにサタンがつけ込んで、魂がバテているのが当たり前のように思わせ、徐々に神様から離れさせる作戦に出てきています。このサタンの作戦に乗ることのないように、日々神様に聞き、神様から知恵をいただいて行きましょう。神様が与えて下さる知恵は、神様との関係を整え、神様からの恵みを受ける備えをさせて下さいます。
マタイ福音書に天国(神の恵み)についての例話が載っています。その話の中に、5人の知恵のある女性とそうでない5人の女性が出てきます。知恵のある5人は、当時の結婚式に必要な灯かりと油を用意していました。しかし、そうでない5人は灯かりだけを用意していた為に、途中で灯が消え、その役割を果たせないばかりか、結婚式という恵みの座に参加することも出来ませんでした。私達は、今、神様の恵みを受ける為に、また、それぞれが自分の為すべき事を果たす為に、神様に聞き、神様の知恵をいただいて行きましょう。そして、本日の聖書の後半の『心を道に向ける』事をして行きましょう。今、世の中では、心をお金に向けて本当の幸せから遠のいている人が多くいます。また、心を仕事や勉強、スポーツや趣味に向けて、疲れてしまう人も多くいます。人が本来、心を向けるべきは、真の道であるイエス様です。イエス様はご自分の事を『道であり真理であり命である』と語っています。イエス様に向かって進む時、生活の全てに神様の祝福を受ける事が出来ます。
さらに、イエス様の所には、休み(安息)があります。聖書に『すべて重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。』と語っています。
この暑い夏、また不安だらけの世の中にあって、私達がバテる事なく迷う事なく生きる為に、神様に聞き、神様の知恵を得て、また、心をイエス様に向けて、幸いな人生を歩んで行きましょう!ハレルヤ♪


2008年7月23日(水)
水曜集会 ・・・王の為の祈り・・・

ハレルヤ♪本日の詩篇72篇は「王の為の祈り」という題が付いて、ソロモンが父であり王であるダビデの為に祈ったものです。
ソロモンはダビデが王としてイスラエルという国を治める働きが神様によって祝福されるように祈っています。その祈りの中に、ダビデの人生を語ったような祈りがあります。
『イスラエルの神、主はほむべきかな。ただ主のみ、くすしきみわざをなされる。』(18節) ダビデは主をほめたたえる事を人生の目的とし、そして、主による不思議な御業を受けて幸いを得ました。このダビデが信じ、頼りにた神様を私達も信じているのです。だから、ダビデのように主をほめたたえて、神様不思議が御業を体験して行きましょう。神様の不思議な御業は、一人一人を必ず幸せにします。
詩篇72篇をぜひお読み下さい。


2008年7月2日(水)
朝の水曜集会 ・・・神への渇き・・・

本日は、詩篇63篇「神への渇き」が開かれました。
ダビデはその人生において「渇き」を覚える事が多くありました。そして、それを満たして下さる神様に叫び求めました。
私達も人生においても「渇き」を覚える事があります。病やトラブルや人間関係や様々な問題で、心が渇きます。世の人はその渇きを満たすために、仕事や勉強に走ったり、お酒を飲んだり、友達と騒いだり、家族でレジャーを楽しんだり、いろいろやります。しかし、心の奥底を満たして下さるのは神様だけです。
ダビデは、満たされる為に主に目を注ぎました。私達も心の奥底まで満たされる為に、今、主に目を注いで行きましょう。実際には、まず、神様の御言葉に目を注いで行きましょう。御言葉は、私達の心を変え、環境を変え、生活を変えて幸いを広げて下さいます。次に、教会での礼拝や集会や祈祷会で、神様に向かって行きましょう。臨在には癒しがあります。主に目を注いで行き、神様に心の奥底まで満たされて行きましょう。
神様に目を注いで行く時、満たされるだけでなく、7節に記されているように、そこに神様の守りがあります。また、8節にあるように、神様の支えがあります。
私達は、日々の生活において、神様に目を注いで、神様に満たされ、守られ、支えられて行きましょう。詩篇63篇をぜひお読み下さい。そして、恵まれ、教えられた事があったら返信下さい。

2008年6月29日(日)
夜の礼拝メッセージ ・・・イエス様が牧者・・・
詩篇23:6『わたしの生きている限りは、必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう』

〜イエス様が牧者〜

この詩篇23篇は「主は羊飼い」という題がついています。イエス様が私達の羊飼いです。ヨハネ福音書にも同じように、イエス様ご自身が『わたしは良い羊飼いである』と語られています。イエス様が羊飼いという事は、私達人間が羊です。実際の羊は目が弱く、迷いやすく、体の割には足が細く、転びやすく、転んだら起き上がるのに一苦労。そして、狼にとって最高のご馳走。だから、羊飼いがいなければ、生きて行けません。
私達人間も羊のように弱い存在です。迷い、悩み、転び、サタンに狙われ、時にはやられてしまいます。だから、イエス様がいなければ生きて行けない存在です。
だから、イエス様を自分の羊飼い(牧者)として、信じ、認め、愛し、イエス様の言う通りに進んで行きましょう。その時、本日の御言葉通り、恵みと慈しみが伴う人生を歩む事が出来るのです。本日の御言葉を他の訳の聖書では『私の命の限り、慈しみと恵みとが、私を追ってくる』と書いてありました。慈しみと恵みに追われる人生が幸せでないはじがありません。
イエス様を羊飼い(牧者)として進んで行きましょう!

2008年6月18日(水)
朝の水曜集会 ・・・嘆願と賛美・・・

本日の水曜集会は、「嘆願と賛美」と言う題がついている詩篇57篇が開かれました。
この詩篇を見ても分かるように、ダビデはその人生において様々な困難な道を歩みました。しかし、彼はどのような中に置かれても、神様との関係を第一にし、素晴らしい関係を保とうとしました。そこに、幸いの秘訣があるのです。お金があり、人脈があり、高い地位につき、良い環境の中にいても、神様と無関係な歩みであったり、神様との関係が稀薄になっていては、その人生は空しいものであり、先細りの人生になってしまいます。私達はダビデが読んだこの詩篇を通して、神様との関係を素晴らしいものにして行きましょう。

まず、ダビデは神様に憐れみを求めました。「自分を憐れに思って助けて下さい」と自分の弱さを認める祈りました。そこに神様が働かれるのです。

次に、ダビデは神様に寄り頼みました。人でも自分でもなく神様だけを頼りにして進みました。そこに今本的な解決を見出すことが出来たのです。

さらに、ダビデは神様を避け所としました。神様の所には守りと平安があることを信じて告白しました。そして、実際、ダビデは神様の守りの中に生きることが出来ました。

そして最後に、ダビデは神様に呼ばわりました。特に本日の詩篇では『私のために全てを成し遂げられる神に呼ばわります』と宣言しています。人はそれぞれ成し遂げたいことがあると思います。それの成就のために努力や工夫をします。ダビデも私達と同じように成し遂げたいことがありました。それの成就のためにダビデは神様に呼び求め、神様の指示を仰ぎました。これが成功の秘訣です。私達も全てにおいて神様を呼び求め、神様の指示を仰いで行きましょう。

私達も神様に憐れみを求め、神様に頼り、神様を避け所として、神様に呼ばわり、神様との関係を素晴らしいものにして行きましょう。そこに必ず幸いがあるのです。
詩篇57篇をぜひお読み下さい。

2008年5月25日(日)
第二礼拝メッセージ ・・・順境と逆境・・・
『順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ』伝道の書7:14

〜順境と逆境〜

本日の御言葉の前半『順境の日には楽しめ』は、誰でも普通にします。しかし、後半の『逆境の日には考えよ』はなかなかできません。現代は特に、逆境になると、キレる!逃げる!あきらめる!人が増えています。逆境の時にキレても、逃げても、あきらめても、解決は得られません。本日の聖書通り、逆境の時には「考える」事が大切です。
では、何を考えるべきでしょうか。まず、逆境に陥った原因を考える。次にそこから脱け出す方法を考え、何を為すべきか、また、何を止めるべきかを考える。実は、この「何を止めるべきかを考え、実行する」のが非常に大切です。そして何より考えるべきは、神様の事です。
神様の事を考えると、逆境の中に陥ってしまった自分も愛して下さる事が分かり、安心を得られます。さらに神様が逆境の中に様々な事を教えて下さいます。そして、神様が逆境を順境に変えて下さる事を信じる事ができ、希望が湧いてきます。
今、順境の中にいる人は、大いに喜び感謝して下さい。また、逆境の中にいる人は、神様の事を考えて、真に進んべき道を見い出し、前進して下さい。
皆様の祝福を祈ります。ハレルヤ♪

2008年5月25日(日)
礼拝メッセージ …天国の市民として・・・
兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
                           ピリピ人への手紙3章17節〜21節


〜天国の市民として〜

以前、「信じるならどの宗教にしますか?」の問いに七割〜八割の人が「キリスト教」と答えていました。しかし、現実にはキリスト教を信じる人は少なく、本日の御言葉通り『キリストの十字架に敵対して歩いている者』が多くいます。そして、パウロの時代も同じような状況でした。それに対して、パウロは涙を流しました。パウロはキリストの十字架に敵対して滅んで行く魂に悲しみを覚えていました。では、私達はどうでしょうか?私も含め、とかく自分の幸せに関心を強く持ち、滅び行く魂に無関心になってはいないでしょうか?そこで、今もう一度、私達はキリストにあってどのような者であるか、また、キリスト者として何を為すべきかを聖書を通して教えられて行きましょう。

本日の御言葉には『私達の国籍は天にある』と記されています。国籍は市民権を表す言葉で、先ほどの御言葉は、私達がイエス様により天国の市民権を持っている事を表し、天国の市民として大きな特権を持っている事を表しています。では、その大きな特権を幾つか紹介します。
まず「永遠の命」です。今世の中では後期高齢者の事が問題になり、長寿とか福寿という言葉に変えたりして、ゴチャゴチャやってますが、私達は長寿や福寿を遥かに超えた「永遠の命」を持っています。天国へ続く命であり、神様と共に生きる命です。この特権を感謝して行きましょう。
次に、私達は神様のご計画の中に生きるという特権を持ってます。神様の私達に対するご計画は、災いではなく平安と将来と希望を与える計画です。これは何にも勝る確かな保証です。今、厳しい中にある人は特にこの特権を信じて期待して行きましょう。そして次の特権は「聖霊様の交わり」です。私達の助け主、導き手、教師であられる聖霊様は、礼拝、集会、祈祷会において豊かに臨んで下さり、私達に喜びや励ましや慰めを与えて下さいます。さらに個人的に聖書を開く時も教師となって真理を悟らせて下さいます。ちなみに、この聖霊様の交わりがなければ、私は何も語ることができません。私達は天国の市民である事を覚えて、これらの素晴らしい特権を活用して豊かな人生を歩むべきです。
そして次に、私達は天国の市民として為すべき事があります。それは本日の御言葉の『救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望む』です。イエス様は私達を天国に連れて行く為に迎えに来て下さいます。今、私達は再臨のイエス様に会う備えをして行きましょう。第一に賛美の備えをして行きましょう。賛美は神様を自分の神(主)と認める事であり大切な信仰告白でもあります。ちなみに歌だかけが賛美ではありません。「ハレルヤ♪主よ賛美します」と神様に宣言するのも賛美です。教会にいる時だけでなく、家庭でも、職場でも、学校でも賛美をささげて神様を認めて行きましょう。

第二の備えは御言葉(聖書の備え)です。日々、聖書を読み、神様の知恵をいただき、神様の思いを御心を知って行きましょう。

第三は、祈りの備えです。祈りは自分を変え、人を変え、家庭を変え、教会を変え、地域を変え、日本を変え、世界を変えます。祈りによって神様による素晴らしい変化を体験して行きましょう。

第四は、福音の備えです。ローマ書1:17に『福音は…信じる全ての人にとって救いを得させる神の力です』と記されています。人に救いを得させるのは福音だけです。人に真の解決を与えるのは福音だけです。人を幸せにするのは福音だけです。イエス様は天に帰る前に『全世界に出て行って全て造られた者に福音を伝えよ』と全ての人に命令されました。今、私達はこの福音の中に生きています。この福音を持っています。それぞれの置かれている所、関わる人々にこの福音を差し上げて下さい。今、私達は天国の市民として、素晴らしい特権の中に歩み、様々な備えをして、益々主を待ち望んで行きましょう。ハレルヤ♪

2008年5月10日(土)
礼拝メッセージ…益になる道、人の徳を高める道…

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。
                          コリント人への第一の手紙 第10章23節

 私達クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪ゆるされまた律法から解放され自由にされています。そして、本日の御言葉通り、キリストにあって全てのことが許されています。だから、このキリストによる自由をもっと感謝すべきです。そして、感謝と同時に人の言葉やサタンの攻撃でこの自由が奪われないように気をつけるべきです。私達はイエス様を信じる信仰によって救われ、神の子とされ、自由にされています。この事をふまえた上で、本日の後半の御言葉を受けとめて行きましょう。

 『しかし全てのことが益になるわけではない』。実は、キリストにあっての自由を肉の働く機会としてしまっているクリスチャンが多くなっています。そして、神様の御心から反れて、欲に生きて、神様の恵みから遠のいて、恵みを受け損なっています。ガラテヤ人への手紙に肉の働きについて記されています。『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽およびそのたぐいである』。神様は、私達一人一人の人生に益になるものを与え、幸せにしようと考えて、実際に様々な恵みを備えて下さいます。しかし、私達のうちに肉の働きがあるならば、神様の備えた恵みから遠のいてしまうことになってしまいます。

 だから、私達はこの信仰生活の中で、自分にとって何が益であるか、害であるかを聖書に照らし合わせて、聖霊様の導きに従って益になる道を歩んで行きましょう。
次の御言葉を見て行きましょう。『全てのことは許されている。しかし、全てのことが人の徳を高めるのではない』。イエス様によって与えられた自由を持って、人の徳を高める道を歩んで行きましょう。人の徳を高めるには、何と言っても「愛する」事です。

 愛するには様々な意味がありますが、本日は積極的に愛する道を紹介いたします。それは「善を行う」です。聖書の中にも『主に信頼して善を行え』『信仰の仲間に対して善を行え』などと記されています。隣人に対して、善を行う事によって、そこに感謝や喜びや平和が広がってきます。さらに、善を行う側にも恵みが注がれます。ローマ書2章10節に『善を行う全ての人には、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、光栄と誉れと平安が与えられる。』と記されています。積極的に愛する道である「善を行う」事をして、人の徳を高めて行きましょう。

 さらにもう一つ、人の徳を高めるものがあります。それは「福音」です。福音は神様の言葉であり、その人を真に幸せにするものです。だから、時あるごとに、福音を届けて行きましょう。イエス様は『全世界に出て行き、すべて造られた者に福音を述べ伝えよ』と語っています。

 私達は今、イエス様によって自由です。この自由を用いて信仰によって自分自身が益となる道を歩んで行きましょう。また、善を行って、福音を伝えて、人の徳を高める道を歩んで行きましょう。主も必ずその歩みに伴い、幸いをもたらせて下さいます。ハレルヤ♪

2008年5月7日(水)
水曜集会…神様を待ち望む時…

ハレルヤ♪今週の水曜集会は詩篇42が開かれました。1節『神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。』私達は渇きを潤される為に、汚れを清められる為に、病が癒される為に神様を慕い求めるべきです。
8節『昼には、主はその慈しみをほどこし、夜には、その歌すなわち我が命の神にささげる祈りが私と共にある。』神様は、私達の人生に慈しみ(愛)を与えて下さいます。その慈しみを受け取るべく祈りが私達にはある。だから、日々祈って神様の慈しみを獲得して行きましょう!
11節『わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえ私のうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。私はなおわが助け、我が神なる主をほめたたえるであろう。』私は信仰生活の中で、うなだれる時、思い乱れる時があります。しかし、神様を待ち望む時、神様は慈しみを与え、いつか必ず心からの賛美をささげる事が出来るようにして下さる!
詩篇42篇を通して、神様からのメッセージをお聞き下さい♪

2008年4月20日(日)
第二礼拝メッセージ…幸せの噂(うわさ)…

イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」、すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。
                           ヨハネによる福音書第2章5節〜7節



 以前、宅配車のトラックに書かれている絵に触ると幸せになれるという噂が全国的に流れた事がありました。私が子どもの頃、ワーゲンという車を10台見ると幸せになれると言うのもありました。逆に中学校の七不思議を7つ全部知るとその呪いが自分にかかってくるというのもありました。ちなみに私がそれを調べてみたら、全部で12コありました。

 本日聖書箇所には、幸せになる噂の事が記されています。ベテスダの池に天使が降りてきて池に触り、水が動いて最初にその中に入ったらどんな病も癒されると言う噂です。それんを信じて多くの人が池の周りに集まっていました。その中に38年間もそこにとどまっている人がいました。その人は、「池に入るしか自分の病が癒される方法はない!自分が幸せになるには池入るしかない!」と思っていました。

 人は苦しい中や厳しい中に長い間置かれると、思いや考え方が硬くなり、視野が狭くなり、自分が幸せにる可能性を限定してしまうことがあります。

 そのような者にも、イエス様は近づき声をかけて、真の解決を与え、幸せの道に導いて下さいます。
その38年間病の中にいた人に向かって、イエス様は『床をあげて歩きなさい』と命じられました。その人が考えていた幸せになる方法とは違うものです。しかし、その人はイエス様の言葉を信じて、その言葉通りに行った時、病が癒され立ち上がることが出来ました。

 イエス様は、私達一人一人にも同じように声をかけ、真に幸せになる道を示しています。信じて従って幸せになりましょう!

2008年4月13日(日)
第二礼拝メッセージ…イエス様によって素晴らしい変化…

母は僕たちに言った、「このかたが、あなたに言いつけることは、なんでもして下さい」。そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
                           ヨハネによる福音書第2章5節〜7節


 本日の聖書箇所は、イエス様が行われた最初の記関が記されています。イエス様は様々な奇跡を行いましたが、決して自分が目立つため、自分が偉い者になるため、自分の名誉のために行ったのではありません。その人が幸せになるため、その場に平和が広がるために奇跡を行いました。
 
 本日の聖書に記されているイエス様の奇跡は、水をぶどう酒に変えるものです。イエス様は結婚式に出席されていました。当時の結婚式において、ぶどう酒は人々をもてなす大切なものでした。しかし、その途中でぶどう酒が無くなってしまいました。そこでイエス様のお母様がイエス様に相談しました。そして、イエス様は僕達に80リットルから120リットル入る水瓶6個に水を満タンにするように命じられました。

 結婚式で必要なのは、水ではなくぶどう酒です。しかし、僕達は言われた通りに行いました。そして、料理人の所にその水を運ぶと、それがぶどう酒になっていました。その結婚式でみんなが最後まで喜び楽しむことが出来ました。

 実はこの水瓶6個の水は、人間を現わしています。人間はイエス様を信じ、イエス様と関わり、イエス様の言う通り歩んで行くとき、ぶどう酒に変わり、それぞれ置かれている場所や環境において、必要とされ、人々を喜ばせ、平和を広げる存在となることが出来るのです。

 今すでにそのような存在になっているは、イエス様によってさらに素晴らしい存在となれます。また、今そのような存在になってない人、逆にマイナスを与えてしまうような存在の人も安心してください。イエス様が変えてくださいます。ただ、イエス様を信じて、イエス様と関わって、イエス様の言う通り生きて行けばいいのです。

 私自身も含めて全ての人がイエス様によって素晴らしい変化をして行くことを心から祈ります。ハレルヤ♪

2008年2月10日(日)
礼拝メッセージ…安息日と人の幸せ…

「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない。』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたの罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」
                           マタイによる福音書第12章6節〜8節


 当時、イエス様は病を癒し、悪霊を追い出し、罪をきよめ、福音を伝え、多くの人に慰めや励まし、愛を与えて、神の国の拡大の働きをしていました。そしてそのイエス様の働きによる恵みを受けた人々は、真に幸せになりました。イエス様は人々の幸せの為に力を尽くして働き続けました。

 しかし、イエス様に反対する人達が律法をかざして、イエス様の素晴らしい働きをストップさせようとしてきました。特に、安息日の問題を出してきてイエス様を攻めてきました。安息日とは簡単に言うと週に一度神様に向かう日として働いてはいけない日のこと。しかし、イエス様はその安息日にも、人々の幸せの為に働き続けました。そこを律法学者やパリサイ人達は攻めてきました。

 それに対してイエス様は『宮よりも大いなる者がここにいる』『人の子は安息日の主である』と語られました。これはイエス様が律法よりも大いなる者であり、律法に縛られることがなく、逆に律法に縛られている人々を絶対的な権威をもって解放して下さる者である事を意味しています。だから、イエス様は安息日であろうと、その一人の人の幸せの為に力を尽くしてくださいました。

 ここで、余談ですが、イエス様は人々を解放するお方ですが、人はとかく誰かを縛ろうとしてしまいます。そして支配し、建前を守る為にその人の幸せの道を潰してしまう事があります。特に世の中において「師(士)」の付く職業の人はその傾向が強いようです。教師、医師、弁護士、代議士そして牧師。私も気をつけなければ…。また、人は自分で自分を裁いたり、縛ったり、建前を気にして真の幸せを自分で潰してしまうこともあります。 

 しかし、イエス様には、建前はありません。全部が本音で真実で、その人の幸せの為に解放し、癒し、きよめ、正し助けて下さいます。だから、私達も本気でイエス様を信頼して、イエス様の声を聞いて従ってまいりましょう。そして幸せになって行きましょう。私達はイエス様によって必ず幸せになれます!ハレルヤ♪

2008年2月6日(水)
水曜集会メッセージ…ミクタムの歌…

ハレルヤ♪今週の水曜集会は詩篇16が開かれました。
この詩篇は「ミクタムの歌」と言われています。意味は黄金の歌とか贖罪の歌とかですが、とにかくこの詩篇は分かり易いし、心が元気になります。
1節〜5節はダビデの祈りと信仰告白が記されていて、『あなたのほかにわたしの幸いはない』と神様への素晴らしい告白をしています。人間の幸せの基(もと)は神様です。そして神様が与えて下さる幸せは誰かを不幸にして成り立つものではなく、またただ単に欲が満たされるたげのものでもなく、平和や秩序が広がり、さらに本人だけでなく周りの人にも幸せが広がって行きます。
6節〜9節は主にある喜びが記されています。『主が与えて下さるものはいつも最高のもの、本当にすばらしい贈り物です』(現代訳)。私も43年生きてきましたが、神様が与えて下さったものは確かに素晴らしいものであり、私を笑顔にしてくれます。
10節〜11節はダビデの確信するところがしるされていて、『あなたは命の道をわたしに教えて下さいました』と宣言しています。神様は私達一人一人に、神様と共に歩む道、天国に向かう道、平和の道、義の道、愛の道を教えて下さいます。そして、その道を歩んで行く時、私達は幸せになることが出来ます。ハレルヤ♪

2008年2月3日(日)
礼拝メッセージ…主のなされる事の結末…

『だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで堪え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。兄弟たちよ。互いに不平を言い合ってはなせない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。忍び抜いた人たちはさいわいである、とわたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。』
                          ヤコブの手紙第5章7節〜11節


 
 私は、以前、聖書の中であまり好きでない書簡がありました。ヨブ記です。ヨブは豊かな生活が一転、全てを失い、病を負い、友人から非難され、妻からも「神を呪って死ねば…」と言われ、苦しく辛く悲惨な中に落とされてしまいました。誰でも苦しく辛く悲惨な体験はしたくないものです。しかし、誰でも人生の歩みの中でそのような所を通ることがあります。イエス様を信じていても、礼拝をささげていても、奉仕に熱心であってもそういう所を通らせられます。実はそのような時に悪魔は「イエス様を信じていても信じていなくても同じじゃん!礼拝ささげてもささげなくても同じじゃん!奉仕してもしなくても同じじゃん!」とささやいてきます。しかし、そのささやきに乗ってしまうともっと悲惨な道に落ち込んでしまいます。

 私達信仰者は、苦しく辛く悲惨な中に終わることはありません。そのような所を通る時、様々な事を教えられ、必ず「主のなさる事の結末」を見ることが出来ます。ヨブも悲惨な中を通らせられた時、様々なことを教えられました。

 まず教えられたのは、信ずべき頼るべき感謝すべき対象は神様ご自身であるという事です。ヨブは神様の守りと祝福の中で生活している時、その恵み(繁栄)に頼り、その恵みを感謝して生活していました。実は真に頼るべきは神様ご自身!感謝すべきはその恵みを与えて下さる神様ご自身!私達も信仰生活において、与えられた恵みは喜び、感謝すべきは神様ご自身であることを忘れないようにすべきです。

 次にヨブが教えられたのは、妻や周りの人々の見る目についてです。人々はヨブ自身ではなく、ヨブの持ち物や地位に目を向けて評価をしていました。 私達も人はなかなかその人の本質ではなく付属部分を見て判断することを覚えつつ、私達が見る時はその人自身をしっかりと見ることをして行きましょう。

 さらにヨブはとりなしの祈りの大切さを教えられました。ヨブについて非難した友人達に神様の怒りがくだろうとした時、ヨブはとりなしの祈りをしました。その祈りをささげた時、彼の繁栄はもとにもどりました。とりなしの祈りは誰かの為ですが、自分自身の祝福にもつながります。

 そして、ヨブの繁栄は回復されました。その繁栄の内容は、全ての財産が2倍になり、多くの家畜を所有し、旧友や親戚達との交流の回復、そしてこども達も新たに与えられました。さらにヨブ自身も長命の恵みも与えられ、幸せな日々を過ごしました。これが主がなさる事の結末です。

 今、私達一人一人の中にも、苦しく、辛く、悲惨な所を通らされている人もいるでしょう。また、今後通ることがあるかも知れません。しかし、その中にあっても神様を信じて、忍耐をもって進みましょう。神様に様々な事を教えられ、また、必ず神様がなされる素晴らしい結末を見ることが出来ます。本日の御言葉の最後にあるように、私達の神様は慈愛と憐れみに富んだ方です。その神様に益々期待して進んで行きましょう♪ハレルヤ♪

2008年1月20日(日)
第2礼拝メッセージ…疑いの心…

『ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。』
                          ヤコブの手紙第1章6節〜8節


「信じる」の反対は「疑う」です。そしてこの「疑う」という行為は、人からも嫌がられ、また神様にも喜ばれないで、その恵みから遠ざかる事になってしまいます。

 しかし、たとい素晴らしい信仰者であっても「疑いの思い(心)」を持ってしまうことがあります。神の人と呼ばれていた預言者エリヤはバアル(偶像)の預言者450人と戦いにおいて、神様を信じて、天から火を下していただくような奇跡を起こし勝利しました。しかし、その後、王妃イゼベルが自分の命を狙っている事を知り、疑いの心を持ち、不安なり、神様に天に召して下さるように逃げの祈りをささげてしまいました。

 私達も様々な困難や恐れの中に疑いの心が出てきてしまうことがあります。この疑いの心によって神様を忘れ、神様を信じ切れず、益々神様から離れてしまいます。

 ではこの疑いの心を取り除けるにはどうすればよいのでしょうか。詩篇に『・・・神を忘れる者よ・・・。感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。自分の行いを慎む者には、わたしは神の救いを示す』と記されています。疑いの心が出てきたら、感謝と謙遜と自制です。そこに神様の救い(解決)が現れます。ハレルヤ♪

2008年1月20日(日)
礼拝メッセージ…シャデラク・メシャク・アベデネゴ…

『シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。』
                          ダニエル書第3章16節〜18節


 紀元前597年のバビロン捕囚により、ユダヤ民族は捕われ、ネブカデネザル王の支配下におかれました。そして、ユダヤ民族の数人の若者が王に仕える者として選ばれました。その中に本日の聖書に出てくるシャデラク、メシャク、アベデネゴもいました。彼らはバビロン王国の支配下にありましたが、その中にあっても神様の支配がある事を信じて神様との関係を尊びました。私達も日々の生活の中で、親の支配、学校や会社の支配、また日本という国の支配の中に置かれています。しかし、どこにあっても神様の支配があることを覚えて神様との関係を尊んで行きましょう。

 ある時、バビロン王国のネブカデネザルが60キュピト(約27m)の金の像を作り、全ての民に拝むように命じ、逆らう者は火の燃える炉の中に入れるとの法律を制定し、シャデラク、メシャク、アベデネゴも強要されました。しかし彼らはキッパリと断り、王に対して『わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。』と宣言しました。この言葉は新約聖書にある『神には何でもできないことはない』という御言葉と重なります。私達も日々の生活の中で、この『神には何でもできないことはない』と信じて宣言すべきです。そして、彼らのように動じない信仰をもって進んで行きましょう。

 さらに彼らは『たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。』と言いました。自分の思い通りにならなくても神様との関係を崩すことなく信仰に生きる決意を表しました。クリスチャンの中にも、自分の思い、自分の計画、自分の予定、自分の欲望、自分の都合で神様を利用してしまう人がいます。私達はそうならないように、彼らの『たといそうでなくても(自分の思い通りでなくても)』と言う信仰をもって行きましょう。

 彼らの信仰に立った宣言に、ネブカデネザル王は怒りを爆発させ、炉の火を7倍にして彼らをその中に投げ込みました。誰もが一瞬にして燃え尽きてしまうと思っていましたが彼らは火を歩いていて何の害も受けず、なおかつ、三人のはずなのに四人いました。彼らの信仰に神様が現れて共にいて下さるという御業が現れたのです。
 私達は彼らの信じた神様と同じ神様を信じています。新約聖書に『インマヌエル(神我らと共におられる)』と記されているように、神様は私達が病の中にいる時も、トラブルの中にいる時も、悩みの中にいる時も、共にいて下さいます。
 
 実は、彼らのシャデラク、メシャク、アベデネゴはバビロンに連れて来られてからつけられた名前で、本当の名前はハナニヤ(主は憐れみ深い)、ミシャエル(誰が神の救いか)、アザリヤ(主は私の助け)でした。彼らは国が変わっても、王が変わっても、環境が変わっても、そして名前が変わっても、変わらない神様を信じ続けました。その信仰に対して、彼らの名前の主の憐れみ、主の救い、主の助けが現れました。

 私達も人生において様々な変化があるでしょう。それにより悲しみや苦しみを覚える時もあるでしょう。しかし、何が変わっても神様は変わりません。だから、私達はこの変わらない神様との関係を大切にして行きましょう。また、たとい自分の思い通りでなくても神様の最善がなされる事を信じて進んで行きましょう。そこに神様の憐れみとイエス様の救いと聖霊様の助けが豊かに注がれます。ハレルヤ♪

2008年1月13日(日)
礼拝メッセージ…32500の約束…

『見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。』
                          イザヤ書第43章19節


 聖書には、32500の神様の約束が記されています。そこで、32500のうち、今、私に成就した神様の約束を数えてみました。「@信じて魂の救いを得たA聖霊が注がれたB天国への確信C祈りによる癒しD求めて与えられたE捜して見出したF門をたたいて開けてもらえたG真理に従って様々な力を得たHイエス様の元へ行って重荷を降ろすことができたI多く蒔いて豊に刈り取ることができたJ隣人を潤して自分も潤された」などなど。しかし、神様の32500の約束のうち、100もゲットしていません。と言うか、この32500の約束の内容を知らないのが現実です。だから、私達は神様の32500の約束を確認する為にももっと聖書を読んで行くべきです。

 そして、本日の聖書も32500の約束の一つです。
『見よ、わたしは新しいことをなす、やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる。』

 神様は私達に新しいことをなしてくださる。新しいことを起こして下さる。新しいこととは、古いことではなく、私達がまだ体験していないことであります。だから何だか分かりません。しかし、それは私達にとって、家庭にとって、教会にとって、日本にとって幸せなことであり、同時に福音の前進につながることです。そして、その新しいことは荒野に道が設け、砂漠に川が流れるような驚くべきことであります。私達の身近に荒野や砂漠がないから、感動や驚きが薄いかも知れませんが、荒野に道ができたり、砂漠に川が流れると言うことは、ものすごいことであり、奇跡そのものなのです。

 実は、その奇跡を神様は私達の人生に『なす』『やがて起る』と約束して下さっているのです。神様はイエス様をこの世に送って下さり、サタンの支配する荒野のようなこの世に神様に向かう「救いの道」を設けて下さいました。また、傷つけ合い、裁き合うこの世に「愛の川」を流れさせて下さいました。今、私達はこの恵みにあずかっています。しかし、これだけではありません。さらなる新しいこと、まだ見ていないこと、素晴らしい奇跡を神様は一人一人の人生になして下さいます。
だから、私達はこの事をなして下さる神様を見て行くべきなのです。本日の御言葉の最初に『見よ』と記されています。神様から目を離さないで、しっかりと見て行きましょう。神様を見ると言うことは、信仰をもって生きると言うことです。その信仰に神様は応えて下さり、私達の人生に新しいことが起るのです。神様になお期待して進んでまいりましょう。ハレルヤ♪